46 願
予感というものあるもので、その日わたしは朝から落ち着かない。入江課長との逢瀬は不定期で偶然的要素が多いから必ず会えるとも限らない。待ち合わせ場所は例の公演だ。私鉄O線の車両整備基地の上。時間帯により異なるが子供が大勢遊んでいる。老人たちが寛いでいる。妊婦は少ないが赤ん坊を連れた母親がおり、休日には若いカップルも現れる。その中で場違いな、わたしと入江課長の二人。親子や兄妹には見えないからズバリ不倫カップルだ。
……とすれば、いずれ家に目撃情報が入るだろう。最初のあのときを除き、わたしと入江課長は会話をしない。一緒に園内を歩きもしない。それぞれが勝手に行動し、やがて別々に公演を出る。気持ちが通じていれば、その後、川縁で再開する。隣町かその先の街のラブホテルで愛し合う。二人の間に事前連絡はない。当然、互いのスマートフォンにも番号はない。出会うのはいつも偶然。わたしは毎日公園まで出向きはしない。当然、入江課長も用がなければ公園周辺に現れない。それでも、わたしが会いたいときに入江課長が公園にいる。入江課長が会いたいときに、わたしが公園にいるかどうかはわからない。
三度目の出会いまでは逢瀬の数を数えている。が、その先は数がわからなくなる。季節は巡り、草花が変わる。頬に当たる風の色も変わり、空の色も変わる。変わらないのは、わたしと入江課長の罪悪感だけ。互いに相手のパートナーに済まないと思いながら身体の関係を続けている。わたしの身体が入江課長の身体と絡まるとき、偏さんの存在が遠くなる。けれども絶頂を迎え、大汐が退くと偏さんの笑顔が戻ってくる。
偏さんの身体の調子は落ち着いている。が、植物状態のお義母さまに会いに行った直後は調子を崩す。最初は落差がかなり大きい。が、半年、一年と経ち、落差が縮まる。偏さんは怖がっているのかもしれない。お義母さまの現在の姿に将来の自分の姿を重ねて……。いつの頃からか、お義母さまをお見舞いした夜、わたしを抱くことが習慣になる。その夜の偏さんは必死な感じだ。わたしに溺れ、死の恐怖から逃れ出ようとしているのか。それとも別の恐怖と闘っているのか。そんな夜は図らずも、わたしが偏さんのお母さん役を務める。性行為中に母親とは尋常ではないが要はいくらでも甘えさせるということ。そのときのわたしは妻ではない。少なくとも性の快感を夫から与えられる妻では……。
「どうした。落ち着かないようだな」
そんな回想に耽っているわたしに入江課長が声をかける。
「旦那さんのことを思い出していたか」
「わたしたちのことは、きっともうバレていると思います」
「そうか」
「お義母さまのバックには大層な人がいるらしいの」
「その噂はおれも聞いたことがある」
「だから今は様子を見ているのでしょう」
「自主的に別れることを待っているんだな」
「だから夫には報せないの」
「考え過ぎだろう」
「入江課長はお義母さまを知らないのよ。だから心配をしない」
「スパイ映画のように、おれたち二人がある人突然消されることになるか」
「お義母さまの第一の願いは夫の幸福なのよ」
「それならば尚子くんが旦那さんに愛されている限り波乱はないだろう」
わたしと入江課長が戯言のような会話をしていると外が騒がしい。お客様、止めてください、という甲高いホテル従業員の声が聞こえ、ついで鍵がまわる音……。そのときわたしが思ったのは、ああ、ホテルの鍵くらいなら簡単に用意できるかもしれない、という事実。果たして勢いよく部屋のドアを開け、戸口に顔を覗かせたのは偏さんだ。後ろに黒服の男の姿が見え隠れる。偏さんが驚きに泳がせた目で暗闇の中のわたしを探し当て、更に目を見開く。
「尚子さん」
ついで聞こえてきたのは細い声。悲しく且つ誠実な……。が、不思議とわたしには覚悟がある。偏さんとの幸せだった日々を鮮明に脳裡に蘇らせる。その間、わたしの傍らで唖然としていた入江課長が気配を消す。ここはわたしと偏さんとの成り行きを静観することにしたのだろう。
「いつからなんだ」
すでに涙の涸れた声で偏さんがわたしに問う。
「偏さんと結婚する前からです」
「その男を愛しているのか」
「はい。言訳は致しません」
「ぼくが強引に事を進めたのが間違いだったんだな」
「いいえ、悪いのはすべてわたしです」
「ぼくと一緒にいても幸せではなかったのか」
「はい、最初は違いましたが、段々とそう思うようになりました」
「ならば、早く言ってくれれば良かったものを……。しかし母がああなっては、それも無理か」
「済みません」
「謝って済むことではない」
「わかっています」
「きみとは別れよう」
「はい。それしかないと思います」
ついで偏さんが鋭い口調で入江課長に告げる。
「そこの男、あなたのことは調べたが、ぼくは資料を読んでいない。これから尚子さんのことを幸せにしてくれ。ぼくには出来なかった幸せを尚子さんに与えてくれ。それだけを宜しく頼む。こちらから、あなたへの頼みはそれだけだ」
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