45 浮

 どうしてこうなってしまったのだろう。わたしの心には後悔しかない。けれども、この胸にある甘やかな気持ちは何だろう。わたしを捉えて離さない、この不思議と落ち着いた感覚は……。酒に酔ったわけではない。嘆き悲しんだわけでもない。時刻も夜ではない。まだ早い午後だ。夫は家で臥せっている。そんな夫を気遣う自分の気持ちに偽りはない。が、わたしは全裸でベッドにいる。隣にいるのは夫ではない男。見かけも冴えない中年の……。

 例えば、この男がわたしの初めての男だったら、わたしは自分に言訳ができるかもしれない。けれども、そんな事実もない。今では夫となった男の次に、わたしが愛した男ではあるが、それだけのこと。夫よりも、わたしとのセックスの相性が良いかもしれない。が、それもそれだけのこと。

 わたしは、この男を愛しているのだろうか。この人の妻や幼い娘から奪い捕るほどに……。つくづく考えてみると、そうかもしれない。更につくづく考えてみると違うかもしれない。

 十分ほど前、わたしはこの男と絶頂を迎え、逝き果てる。夫とのセックスでは未だ経験がない狂わしさだ。気にするなと夫は言うが、夫とのセックスで、わたしはいつも気を遣う。それで性の喜びが半減してしまう。最初のときだけは、そうではない。夫もわたしも無我夢中で抱き合ったのだから……。けれども回数を重ね、結婚もし、互いのセックスが子供を得るためのだけ行為に変わったのだろうか。わたしには、そうとは思えないのだが……。

 が、事実はそうかもしれない。子供は欲しい。夫も望んでいる。が、こればかりは天の恵みだ。簡単に解決する問題ではない。それにまだ時間はたっぷりとある。不妊治療を始めるような歳ではない。夫も、わたしも……。それなのに……。

 夫のことは愛している。そのこと自体は嘘ではない。が、わたしは入江課長のことも愛しているのだ。もう自分に嘘を吐けない。身体優先の愛かもしれないが、それも愛だ。けれども、これはいけない愛。絶対に……。わたしは知由ちゃんに会わせる顔がない。入江課長の可愛い娘である知由ちゃんに……。当然奥様に会わせる顔もないが、わたしは課長の奥様の名を知らない。入江課長によると課長の奥様はわたしの存在に気づいていたらしい。その後タイミング良くわたしが結婚し、入江課長が奥さんの一人のものに戻る。結婚前は知らないが、入江課長は結婚後、わたしとしか浮気をしたことがないと言う。課長の人柄からして、それは本当のことだろう。だから、ああなってしまったとき、入江課長はわたしに何を求めたのだろう。一方のわたしはまた課長に何を求めたか。

 考えても答はない。だから無理矢理、父親的な愛だろうか、と仮定してみる。わたしの父は忙しい人だから、子供時代に構ってもらった記憶が殆どない。家族パーティーが中止になったことも屡々だ。が、暇さえあれば、父はわたしを第一に扱う。時として母が冗談で小言を言うほどに……。だから、わたしは父から愛されているという実感を持つ。同じことは母についても言えるが、母の愛は、わたしの入江課長への愛とは無関係だろう。少なくとも普通の意味では……。では何故……。

「結局、なるようになってしまったか」

 眠っていたとばかり思っていた入江課長がベッドで天井を見つめながら口にする。

「そうでしょうか」

 わたしも答えるが上の空だ。

「きみも同じだろうが、おれは妻を愛している」

「ええ」

「でもきみも愛している」

「ええ」

「人間は難しいな」

「わたしは遠くにお嫁に行くべきでした」

「でも、もう止めよう」

「はい」

「またこうなるような気もするが、お互いの家族が可哀想だ」

「はい」

「それともいっそ、おれと結婚するか」

「会社を首になりますよ」

「それは、おれが他の社員の目に耐えられなくなったときだろう」

「上司にだって信頼されませんよ」

「女と仕事は別さ」

「『私が推挙したのは才であり、徳ではありません』と魏無知(ぎ・むち)が陳平(ちんぺい)を庇ったように課長を庇ってくれる上司がいればの場合でしょう」

「まあね」

「だからダメです」

「うん、そうだな」

「わたしが先にホテルを出ますから……」

「それがいいだろう」

「だから先にシャワーを浴びます」

「風邪を引くなよ」

「はい。課長も後でちゃんとシャワーを浴びてくださいよ」

「わかってるよ」

「尚子くん……」

「はい」

「お世辞ではなく、きみは綺麗だな」

「そんなことは知っています」

「ばか、と詰らないのか」

「ええ、もう二度と……」

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