44 駆

 池ノ上先生との打ち合わせから十日ほど後、わたしがある場所に派遣される。高級料亭の奥座敷とでも言えば良いか。地図で確認すれば街そのものは薄いが、蠢く人間関係は闇深い。奥に六畳間が続く四畳半の和室に置かれた卓袱台は年代物だが、ポットが現代的なのは旅館のようだ。実際これから、かつての温泉旅館のように使用される部屋ではあるが……。

「失礼します」

 待つこと暫し、女中が開けた障子から顔を覗かせた男が言う。歳の頃なら四十代前半。線の細い美形。わたしの心と身体が真っ新ならば気を惹かれたかもしれない。男の風貌を見極めながら、わたしが無言でお茶を入れる。

炬燵に座り、楽になるように勧める。

「なるほど、お綺麗ですね」

「ありがとうございます」

「雰囲気からして芸子さんではありませんね」

「残念ながら……」

「何かできる芸はあるのかな」

「家族に聞かせるためにピアノを教わりました」

「ほう、それで……」

「まるでモノにはなりませんでした」

「だが、聞けないほどではないだろう」

「それは……」

「いずれ拝聴したいものだね」

「機会があれば……」

「このまま上手く事が運べば必ず機会はあるはずだ」

「では愉しみに待ちますわ」

「ところで、あなたの名は……」

「花と申します」

「どうせ源氏名だろうが、意味は……」

「末摘花(すえつむはな)ですよ」

「あなたは赤鼻の醜女には見えないな。成形か……」

「何なりとご想像を……」

「どうしてこの仕事をしている」

「先生がそれをお知りになれば、わたしを連れて逃げなければなりません」

「あなたとならば、そうしたいのは山々だが……」

「どちらの皆様も、そう仰います。だからわたしは、いつまでもこのまま……」

「そう言うな。ぼくの母も似たような境遇だったんだ」

「まあ」

「結局父親の妾になり、ぼくを産んだが……」

「ならば、お幸せではないですか」

「本妻がヒステリーでなければな」

「ああ……」

「それに本妻には男の子がいない。その事実も不幸を呼んだ」

「先生はどちらのお母さまにも愛されなかったのですね」

「あなたにわかるのか」

「不幸者は不幸者を知ります」

「そうか」

「本当のお母様は先生のことを、お父様をお呼びになる道具としか見做さなかった」

「その通りだよ。義理の母も当然のように、ぼくを可愛がりはしなかった。できることなら家に入れたくもなかっただろう」

「可哀想に……」

「更に、ぼくの妻もぼくを愛していない。政略結婚だと割り切っている」

「それは奥様の方便です」

「わかっているさ」

「お子様はいらっしゃいますか」

「ああ、男と女二人いる」

「お可愛らしいでしょう」

「娘の方が反抗期だがね」

「あら」

「息子の方はおっとりしていて、まるでその気配もない。それはそれで心配だが……」

「親の気苦労は絶えませんね」

「本当にそうだよ」

「今夜は十分、甘えてください」

「恥ずかしいな」

「ならば、わたしを征服してください」

「乱暴は嫌いだ」

「そんなお気の弱いことでは将来妖怪になれませんよ」

「ぼくは、そこまでの政治信条を持っていない。やがて息子に地盤を譲り渡すための道程だ」

「では、それも先生が生きる方便だ、と……」

「そんなところだな」

「男の自信は女が生みます」

「どういう意味だ」

「先生の家庭環境が先生を意気地なしにしたのです」

「はっきり言うね」

「それも、わたしの仕事のうちです。さあ、来てください。それとも先にお酒をお召し上がりになりますか」

 わたしが菊坂一樹(きくさか・かずき)の様子を見ながら口にする。これまで浮気の噂がなかったのが嘘のような美男子かもしれない。事実として浮気の例がないわけではないようだが、池ノ上先生によれば、回数が少ないらしい。家庭で寛げないので暇を見て女や酒で憂さを晴らすのだが、賭け事はしないようだ。その点を生真面目とみるか、端から勝負師ではないとみるか。

「花さんを頂くよ。酒はその後だ」

 特に気取ったふうもなく、菊坂一樹がわたしに言う。

「では、そのように……」

 わたしが満面の笑みを浮かべ、言葉を返す。嫣然とではなく、無垢な感じの笑みを選んで……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る