38 優

 洋二さんが家に戻るまで、わたしは忙殺される。わたし自身はぼおっとしていたいのだが周りが許さない。忙しくしていれば悲しみが和らぐ、と考えてでもいるかのように……。少しでも多くの時間が過ぎ、現実を冷静に捉えられるようになるまでは考えるな、とでもいうかのように……。気の良い隣人たちや大学関係者が次々とわたしに仕事を与える。

「とにかく気を強く持って……」

「不幸は不幸だが、命が助かったんだから、まだ……」

 が、そんな彼らの言葉も洋二さんが傷つけられた状況が徐々に明らかになると変わってくる。豹変とまではいかないが余所余所しい態度に変わる。わたしに対する同情心は消えないにしても……。人とは、あるいは人間関係とは、おそらくそういったものなのだろう。

たしが洋二さんを愛していたなら腹を立てたかもしれない。が、事実は何も気にならない。

 その間、わたしが唯一気に病んだのが母への連絡。何らかのネットワーク――例えば池ノ上先生絡みの――を通じて既に洋二さんを襲った事件を母は知っているかもしれない。が、報告しないわけにはいかないだろう。母からわたしの元へ確認の電話が入るより先に……。

 けれども、わたしの心が躊躇する。母からの叱責を少しでも先延ばしにしようと逃げ続ける。実際、国際電話をかけようとすると手が震える。送受機を真面に持つことができない。やっとのことで送受機を持てば今度は指先がブルブルと震える。それでプッシュボタンを押すことができない。他の電話ならば平気なのだ。病院へかけたり、保険会社へかけたり、あるいは警察から電話を受けるとき、手は震えない。それが故郷にいる自分の母親に連絡を入れようとすると……。だから、わたしは厭でも気づかされてしまう。自分がまだ母のことを愛しているのだと……。最愛の息子と仲睦まじく暮らすため、実の娘を家から追い出した母だというのに……。わたしの価値は自分の兄を介護することにしかないのだ、と説き続けた無慈悲な母だというのに……。わたしは未だに、そんな母に褒められたいのだ。我ながら自分が理解できなくなる。わたしは何故、母に殺意を抱かないのだろう。自分の娘を自分の息子のため、性のテクニシャンにしようと試みた卑劣な母だというのに……。

「そう。困ったことになったわね」

 が、わたしが持てる勇気を振り絞り、母に連絡すると返って来た答がそれだ。 

「唯さんが不憫だわ」

 母に気を遣われる。それで、わたしが拍子抜けする。

「酷い男だったわね」

「お母さま、わたしはこれからどうすれば……」

「治療費は工面します。どちらにしても、唯さんに払える金額ではないでしょう」

「はい。お願いいたします」

 実際、保険制度の関係もあり、手術費が故郷の国とは桁違いだ。最低でも十倍違う。種類によっては二桁以上違う。もちろん高い方に……。

「唯さんは、これからどうしますか」

「さあ。どうしますか、と言われましても……」

「湯沢と別れたいですか」

「将来的にそうなるにしても今見放すのは可哀想です」

「裏切られてまで尽くす気なのですね」

「洋二さんなりに、わたしを裏切った理由があったのでしょう」

「唯さんらしいというか。本当は理由がわかっているのでしょう」

「いいえ、まったくわかりません」

「でも湯沢のことは愛していない」

「それは……」

「唯さんが切れば良かったのよ」

「えっ」

「だから湯沢の性器を……」

「そんなつもりはありません」

「つまり浮気をしたいのであれば勝手にすればいいと……」

「そういう考えとは、また違いますが……」

「わたしが間違っていたのかしら」

「お母さま……」

「だけど浮気を見抜けなかったのは失敗ね」

「わたしには、まるで見抜けませんでした」

「今にして思えば唯さんの相手には散々遊んだ男を選んだ方が良かったのね」

「意味が分かりません」

「わからなくていいわ」

「あの、お母さま……」

「済みませんが、唯さん、お客様が見えたので一旦電話を切ります」

「はい」

 が、待てど暮らせど母から国際電話はかかってこない。そう気づくまでの夜半数時間、わたしは母の言葉を反芻する。内容は、それまでのわたしには信じられないほど優しく温かいものだ。が、家に戻って来い、とは言ってくれない。何度思い返しても、それが事実。

 わたしが目を真っ赤に腫らしながら独り家で泣いていると不意に電話のベルが鳴る。海外契約のないわたしの携帯電話ではなく家の固定電話だから国際電話かもしれない、と期待する。

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