第四章 37 件

 その報せを受けたとき、わたしは何も感じない。

「そうですか」

 単にそう答えただけだ。ついで相手の言葉をメモ書きし、不明な点を確認すると、通話を切る。正直、面倒なことになった、とは思っている。が、それ以上に、人はなるようにしか生きられないのだ、と諦めてしまう。以前、わたしが父に思ったことだ。わたしが生まれ、その後すぐに死んでしまった父。まるで記憶がない父……。

「湯沢の妻です」

 洋二さんが運び込まれた病院の受付に告げ、集中治療室に向かう。ベッドを覗けば、洋二さんが眠っている。顔には苦悶の表情がある。余程、痛かったのだろう。そのとき、わたしはまだ洋二さんがナイフで傷つけられたとしか聞いていない。その後、わたしが冷静さを保っていると判断した医者から怖い事実を告げられる。性器のすべてが切り取られたと聞き、わたしは何かを感じただろうか。おそらく今後の対応がいろいろと面倒になる、とは考えたはず。が、それくらいだ。さぞ、痛かったことだろう、と同情はできる。が、身内に感じる痛みがない。まるで他人を襲った出来事だとしか思えない。洋二さんは正しくわたしの夫であるというのに……。新しく誕生した二人だけの家族の一人であるというのに……。が、事実として、わたしにはやはり他人に起こった事件であるとしか感じられない。洋二さんとわたしは婚姻関係にあるから、今後、介護の必要はあるだろう。そう思っただけ。だから自分でも自分のことを冷たい女だと感じる。けれども、それが事実ならば受け入れるしかない。

「加害者は学生で名前は……」

 暫く目を覚ましそうにない洋二さんから離れ、わたしが警察官の話を聞く。

「ディスティニー・ホーンと言います」

 二人いる警官のうち年配の方がその名を告げ、ああ、あの女学生が洋二さんを愛していたのか、とわたしは知る。ついで、けれども洋二さんが自分のことを単なる性の相手としか考えていないから暴走したのか、と推測する。若い警察官が、

「彼女のことを知っていますか」

 と尋ねるので、

「数回、家に来たことがあります」

 と事実を述べる。

「お料理を習いに来ましたが、その後、勉強が忙しいのか間遠くなり……」

 おそらく、その頃に彼女は洋二さんに抱かれたのだろう。その行為がとても素晴しかったのか。だから彼女は洋二さんを憎むほど愛し、傷つけたのか。

「ご主人とホーン氏の関係について、あなたは気づいていましたか」

「いいえ、まるで気づいていません」

「最近のご主人の様子に何か変わったところは見られませんでしたか」

「仕事が忙しいのか、疲れているようでした」

「それ以外の点は……。例えば夫婦関係などは……」

「行為の際、勃たないことが何度かありました。でも、それくらいです。わたしは研究が大変なのだろうとしか考えませんでした」

 嘘を吐いても仕方がないので正直に話す。夫のことを愛している妻なら口にしないかもしれないことを……。それとも普通に話す内容だろうか。

「あなた自身もショックを受けていると思いますので行動するときには気をつけてください」

「わかりました」

「何度か、お話を伺うことになるかもしれません」

「はい」

「では、お気を確かに持って……」

「お気遣い、ありがとうございます」

 二人連れの警官から解放されたわたしを院内アナウンスが呼ぶ。

「ユイ・ユザワさま、ユイ・ユザワさま、三号棟二番窓口まで、お越し下さい」

 それを受け、わたしが指定された窓口に向かう。すると担当者から医者のいる部屋に行け、と指示される。それで探し当てた部屋に入ると、

「ご心配でしょうが、幸い、ご主人の命に別状はありません」

 背の高い医者に説明される。その後、入院について簡単な手解きを受け、何枚かの書類を渡される。後に入院費を知り、あまりの高額にわたしは驚くが、そのときはまだ混沌とした慌ただしさを感じていただけだ。

「麻酔で今晩中に目を覚ますことはありません。だから一旦家に帰ってください」

 いつの間に医者と入れ替わったのか色黒のナースに言われ、わたしが首肯く。平気なようでも気が動転しているのだと気づかされる。ナースは洋二さんの事情を知っているのだろう。わたしに沈痛な面持ちを向ける。が、わたしはどんな表情を返せば良いのかわからない。だから曖昧に微笑む。今思えば、気が触れたと勘繰られたかもしれない。医者の忠告を守り、電車ではなくタクシーを拾い、家に向かう。十数分後、家に辿り着けばガランとした雰囲気。主人がいないのだから当然だろう。が、そこに、わたしを責めるような気配が生じる。おまえが夫を愛さなかったから夫がああなったのだ。おまえは一見貞淑で敬虔な妻のように思えるが、実は男を破壊する疫病神なのだ。どこからともなくそんな声が聞こえ、わたしに纏わりつく。粘々した空気のように気色が悪い。だから、わたしはその声に答えるように言ったのだろうか。

「洋二さんは性器を切り取られるほど彼女に愛されていたのよ。だから可哀想だとしても真の妻を得たのだから素晴らしいことではないかしら」

 自分でそう口にし、改めてわたしは気づく。どうやら自分が本気でそう思っていることを……。それで目を閉じ、心を覗く。まだ形がないが何かが羽化する様子が仄見える。崩壊の前日のようなユラユラ蠢く真っ赤な背景の中に……。すると自分が二つの気持ちに引き裂かれていくのを強く感じる。一方はこれまでと同じ自分。洋二さんを信じ、どんな不幸な状態になろうと洋二さんの妻として尽くそうという気持ちのわたし。そしてもう一方は、ああ厭だ、もうこの結婚を解消したい、という、これまでのわたしには考えられない気持ちを持つわたしだ。

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