39 略

「沙苗さんの遺作背景は満州事変か」

 池ノ上先生が、出来たばかりの著作の帯を眺め、口にする。

「お気に召されましたか」

「まだ終わりまで読んでおらん」

「そうでしたか」

「通州事件を入れたとなると中国で売れないな」

「構いません」

「共産党政府が圧力をかけて来るかもしれん」

「わたしはホテルのオーナーではありませんよ」

「彼らにとってはホテルのオーナーではなく一人の作家だろう」

「一国が一人に圧力とは大袈裟です」

「が、そういった国なのだ」

「変わらないということですか」

「それは我々も同じだがね」

「登場人物についてはどうでしょう」

「わしはアレほど格好良くない」

「誰が格好の悪い男相手の恋愛小説を読みたがりますか」

「性格ならば兎も角、容姿までもだ」

「先生はご自身の男っぷりをご存じのはずですよ」

「沙苗さんの女っぷりには負けるな」

「わたしは余命幾許もないお婆さんです」

「孫の顔は見れないか」

「今、尚子さんのお腹の中にいたとしても無理でしょう」

「寂しいな」

「仕方がありません」

「ところで湯沢くんは自殺したそうだな」

「先生は既にご存知でしょう」

「唯さんは大丈夫か」

「死んで精々しているはずです」

「昔を思い出すか」

「まさか」

「事故ではないが……」

「人間関係も事故の内です」

「コントロールを間違えたというわけか」

「わたしは礼三郎さんを愛していました」

「唯さんも唯さんなりに湯沢くんを愛していただろう」

「愛せれば良いと思っていただけですよ」

「見合い結婚は皆そうではないか」

「先生は、お葬式には出なければならないと思いますか」

「自分の身体を気にすることだ」

「話を書き終え、心神喪失しているとでも情報を流しますか」

「そんなことは朝飯前だが、煩い記者(ブン屋)でもいるのか」

「いえ、具体的には……」

「沙苗さんが行けないのなら本来偏が行くべきだが、無理か」

「本人は行く気満々ですが……」

「最近は元気なようだな」

「わたしよりマシでしょう」

「では医者と一緒に海外に送るか」

「それはできません」

「数日なら大丈夫だろう」

「ならば、わたしも行かないと……」

「沙苗さん、死ぬぞ」

「遺作はもう書きました」

「次回作を遺作にしよう」

「あと数日の命なのに……」

「単なる予言さ」

「けれど先生を何度も助けた」

「わしがすぐに行動したからだ」

「先生が見捨てなくても、あの政治家は終わりですよ」

「確かに自業自得のところはある」

「まず、お金に対して甘過ぎます」

「移転の件では、いずれわしにも被害が及ぶだろう」

「女で篭絡できませんか」

「どういうことだ」

「その昔、毛沢東率いる中国共産党は蒋介石率いる国民党と日本軍、つまり敵同士を戦わせ、満州事変、日中戦争を導き、漁夫の利を得ました」

「二つの敵を戦わせよ、か……」

「今は昔とは違いますからスキャンダル一つで追い払えます」

「が、女は足りているはず」

「でも先生には秘密兵器があります」

「しかし……」

「当然用心はされたのでしょう」

「ああ、知る者は少ない」

「ならば使えばいいんです」

「だが……」

「まるで先生らしくもない。かつて、わたしも先生の駒でしたのに……」

「沙苗さんが有名になる遥か前だな」

「昔のことですから当時の娼婦とわたしを結びつける写真などの証拠はないし、今では関係者も生きていない」

「すべてが死んだわけはないぞ」

「野に逃げた全員は臆病者です。取るに足りません」

「まさか、そこまで考え、あの小説を書いたのか」

「そんなことはありませんよ。『耀ける大地』は恋愛小説です。唯の甘ったるい」

「では、どういうつもりだ」

「最後の恩返しですよ。唯を使うのが、あの子のためにもなります」

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