27 新

「こちらでの生活には慣れたかしら」

 燐家のアン・ファーガスン夫人がわたしに問う。

「ええ、まあ……」

 カタコトの英語でわたしが答える。午後のお茶時間。外は晴れ上がっているが室内でのティータイムだ。質素な我が家のダイニングキッチンに若い女が二人。煎れたお茶が紅茶ではなく緑茶なのはアンが日本通だからだ。

「美味しいわ。それにホッとする」 

 アンのお茶の感想に笑顔で応え、わたしも茶を啜る。

「越してきたばかりの頃はヨウジの顔色が悪くて心配したけど最近は顔色もいいわね」

「ええ……」

 わたしの夫、湯沢洋二の顔色が結婚当初に悪かった原因はわたしにある。洋二さんはわたしの身体に溺れたのだ。それでどんなに忙しくても、わたしを求める。平日は夜に、休日は一日中、空き時間さえあれば何度でも……。だから当然、寝不足になる。慣れない海外で初めての生活だから、その意味での緊張も加わり、顔が土気色に変わる。当然、体力も落ちたが、最悪の事態だけは免れる。つまり自制だ。洋二さんが、わたしの身体に溺れる自分自身を自覚する。それでセックスの回数を減らす。洋二さんにとって可能な限り。……といっても週に三回は欠かさないが。

「セックスがこんなに愉しいものだとは思わなかったよ」

 わたしの身体に溺れ始めたときに洋二さんが言う。

「これまでは単に子供を作るための行為だと思っていた」

「いずれ子供も生まれますよ」

「でもまだ駄目だ。食べていけない」

 わたしは洋二さんと、まだコンドーム越しのセックスしかしていない。わたしの身体に溺れても、それだけは守る洋二さんの几帳面さ。だから洋二さんにとって、わたしが初めての女性かもしれない。深く考えるまでもなく、そう思えてしまう。もっとも男の人はプライドが高く、それは洋二さんも同じだから、自分から童貞だと告白されたことはないが……。一方のわたしは池ノ上先生の勧めで処女膜再生手術を受けている。執刀したのが先生お知り合いの医者だから当然のように腕が良い。女に不慣れな洋二さんを騙すくらい造作もない。池ノ上先生の説明では、

「どんなプレイボーイだろうと騙せるよ」

 ということだ。

「ただし唯さんの反応を見れば、すぐにバレるだろうが……」

 そう続けはしたが……。

「新年にはローズ・パレードがあるけど、ユイは帰国するのかな」

 まだ二月以上先の話をアンがする。

 洋二さんが勤めるカリフォルニア工科大学はアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡に位置する都市パサデナ市の東側にある。敷地総面積百二十四エーカーのキャンパスを構える広大さだ。パサデナ市自体は人口およそ十三万六千人。カリフォルニア州サンガブリエル山脈の南部、太平洋岸から約五十キロメートル、ロサンゼルス市中心部から北東約十五キロメートルに位置している。ロサンゼルス郊外の高級住宅地でもあり、アンが口にしたローズ・パレードでも知られる。

 ローズ・パレードの伝統名はトーナメント・オブ・ローズィズ・パレード。パサデナで毎年行なわれる新年祝賀行事だ。アメリカンフットボールの大学リーグ、ローズボウルが開催されるトーナメント・ハウス前から元国道六十六号線の一部であったコロラド通りをパレードする。花で装飾されたフロート車、マーチングバンド、馬などが登場する。一八九〇年一月一日に開始され、何十万もの人々が沿道で観覧した模様が全米でテレビ放送されたらしい。二〇一一年より公式名称が『ローズ・パレード・プレゼンテッド・バイ・ホンダ』と変わる。そのためホンダのフロート車が先頭となり、毎年テーマに沿ったフロート車が後続するようだ。

「そうね。帰国すると思うわ」

「サトガエリって言うのよね」

「里帰りっていうのは、正確には妻が結婚後、初めて実家に帰ることを言うのよ」

「ふうん」

「伝統的な風習だと結婚後三日目また五日目に夫が妻を妻の実家まで送り、自分は婚家に戻り、自分の実家に宿泊した妻は翌日自分の母に送られ夫のいる婚家に戻る……というか送り届けられる、となるわね」

「へえ、面白い風習……」

「今では妻が一時的に実家に帰ることを指すようにもなっているけど」

「伝統は変わるわね」

「変わったと言えば『里帰り出産』と呼ばれる形態もあるのよ」

「ふうん。ユイは早く赤ちゃんが欲しい……」

「わからないわ」

「子は神様からの賜物(The child is a godsend.)っていう諺もあるしね」

「ああ、それってアメリカにもあるんだ」

「……ということは日本にもあるのね。ユイが良ければ日本語を教えてくれない」

「それはいいけど、もしかしたらあなたの国の諺が日本で翻訳されて浸透しているだけかもしれないわよ」

「でも日本とアメリカじゃ歴史の長さが違うから」

「でも、それ以上に文化が違うでしょう。だから言ったのよ」

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