28 切
「ただいま」
「ああ、お帰りなさい。早かったのね」
「早くきみに会いたくて……」
「そんなことを言って、研究の方はどうなの……」
「ボチボチだな」
「難しいものね。わたしには、まるでわからない」
「夕食は……」
「お肉に、お野菜を多め。卵もつけたわ」
「助かるよ」
「洋二さんは頭脳労働者なのにね」
「今日の夜は肉体労働者さ」
洋二さんにそう言われ、わたしは新婚家庭の妻らしく俯きながらはにかむ。
「可愛いよ」
「ありがとう。洋二さんは素敵だわ」
「そう言って貰えるとありがたい」
「まだ少しかかるから寛いでいて……」
「ああ、そうする」
洋二さんの専門は量子物理学だ。実験ではなく理論の方……。もっとも教授や学生相手の対応に忙しく、自分の研究時間はなかなか取れないと閨で零す。
「そういえば、今日実家から宇治茶が届いたわ。兄が送ってくれたの。午後にアンと飲んだわ。美味しかった」
「ああ、それは良かったな」
結婚当初、わたしは洋二さんに大学での研究内容を聞いたことがある。わたしの意図としては少しでも夫婦間の話題にならないかと思ったからだ。が、それに対して返ってきた答は、
「いきなり説明してもわからないと思うから、まず前座だけど……」
そう言い、洋二さんが切り出した内容は電磁場の量子化。
「電磁場を量子化すると時間方向の〇成分がマイナスの確率を持つんだ。でも、それではマズイかろうと多くの研究者がマイナス要素を消し去る試をした。その結果、それはできないことがわかった」
「それで……」
「葬り去ることができない成分なら式の中に閉じ込めようと発想した。B場と補助条件というんだけど、それで表現すると一つの光子の状態が五つになる。これが更に四つの状態にまで減る。その内の一つは物理的状態でスカラー光子、その内の二つは実際に観測される物理的状態の横波光子、最後の一つが非物理的状態の縦波光子で……」
「良くわからないけど、最初の状態が問題なのね」
「唯さんは頭が良いな」
「ありがとう。でもそこまでよ」
「さて、どうだか。……式を良く見ると最初のスカラー光子は、この世では観測されないことがわかる。何故なら、観測確率がゼロだからだ。完全に数式の中だけに閉じ込められる」
「それで……」
「電磁場の時間方向〇成分はクーロン・ポテンシャルだから……」
「ホラ、もうわからない」
「つまりね」
と言い、それまで腰かけていた椅子から洋二さんが立ち上がる。ダイニングキッチンに嵌め込むようにして置かれたホワイトボードに数式を書き始める。ホワイトボードは理論物理学者一家の必需品らしい。もちろん洋二さんと結婚するまで、わたしはそんなことを知りもしない。
「……こう書けるから、クーロン力を生み出しているのは数式内に閉じ込められているスカラー光子ということになる。これと、さっき消えた非物理状態の縦波光子が観測されないゴースト(幽霊)と呼ばれる。わかったかな」
「これが前座であるという部分はね。後はさっぱり……」
「つまり、ぼくが言いたいのはクーロン力……電磁気力を伝えるのは物理的に観測されない縦波光子とスカラー光子ということなんだ」
「それで……」
「今の例は電磁力の話だけど、これは質量の起源とも繋がる」
「ふうん」
「ヒッグスっていう人の名前を聞いたことがあるだろう。二〇一三年にノーベル物理学賞を受賞した……」
「悪いけど、今日はここまでにするわ」
食事後、洋二さんがわたしを貪る。気遣いはあるが我武者羅に……。大切にはしてくれるが強引に……。
「ああ、唯さん、愛しているよ」
「わたしもよ」
わたしが初めてフェラチオを試みたとき、洋二さんが、えっ、と目を丸くする。一見清楚で且つ子供っぽく見えるわたしが自分のペニスを咥える姿が信じられなかったのだろう。
(女子の嗜みなのよ)
わたしは濡れた目で洋二さんに訴えたが、果たして真意が伝わったかどうか。
「昨日は驚いたよ」
翌日の朝食の席で雄二さんが何気なく言う。そこまでは良いが、次の言葉がわたしに刺さる。
「まさかとは思うけど、唯さん、誰かに習ったんじゃ……」
直後、わたしが目を赤く腫らす。ついで号泣だ。
「うわあん、うわあん……」
「……」
最初の涙は正直言って芝居だが、その後の涙はわたしの心の発露かもしれない。洋二さんの疑いとは、まるで違う意味であったが……。
「ゴメン、唯さん。酷いことを言った」
「うわあん、うわあん……」
わたしの涙が止まらない。自分の意思で止めることができない。
「うわあん、うわあん、うわあん……」
ああ、兄が恋しい。あのとき、わたしの心の中にあったのは、そんな思い。
「ゴメン、唯さん。ぼくが悪かった。だからさ、泣き止んでおくれ」
浮気以上に酷い妻の裏切り行為かもしれない。
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