29 茶

「少し疲れたようだ。休むよ」

 熱があるのか、額に手を当てた後、偏さんがわたしに告げる。日曜の午後もまだ早い時刻。わたしたち二人がいたのは広い洋間。朝から風が強く、窓がピシピシと鳴り続けている。

「そう、わかったわ。井上先生は呼ばなくて良いの」

「今はまだ平気だと思う」

「じゃあ、寝室まで……」

 そう応えつつ、夫を夫婦の寝室に送り届ける。家には車椅子の用意もあるが、偏さんは自分で歩くという。

「新婚旅行で疲れたのね」

「本当は海外にきみを連れて行きたかったよ」

「そんなことはいいのよ。偏さんさえ傍にいてくれれば……」

「医者と看護婦同行の新婚旅行じゃ落ち着けなかっただろう」

「井上先生も宮原さんも親切にしてくれたわ」

「きみは強いんだな」

「そうよ、偏さんの分までね」

「そうか。じゃあ、お休み……。愛しているよ」

「ええ、わたしもよ」

 偏さんとの言葉の遣り取りを終え、わたしがそっと寝室を出る。夫婦の寝室と言っても元は偏さんの部屋だ。そこにわたしの数少ない嫁入り道具が収められる。ベッドは元からダブルだったので新調していない。ベッドの横には簡易的な医療設備があるが、あくまで簡易的なものだ。将来的に偏さんが、例えば透析患者になったとすれば、家庭用の人工透析器が置かれるのだろうか。新婚旅行に罹り付けの医者と看護婦が同行することに偏さんは強く反対する。が、わたしの方からお願いする。

「何もなければ、それで良いのだから……。何か起こったときには取り返しがつかないことになるのだから」

 決して興奮しないように口調を速めず説得する。もしも、わたしがすれっからしの偏さんの恋人ならば

「新婚旅行で、わたしを未亡人にする気なの」

 と煽ったかもしれない。が、その台詞は頭の中に浮かんだものの、さすがに口にはできない。偏さんの場合、冗談では済まされないからだ。少なくとも、わたしとの関係……絆が、もっと深くならないことには。

「あなたには感謝をしているわよ」

 偏さんを夫婦の寝室に送り届け、することもないまま洋間に戻り、大きなソファに埋もれつつ独り思案に暮れていると声がする。義母、鴻上沙苗の声だ。おそらく、わたし以上に偏さんのことを愛している女。

「あら、お義母さま。済みません、ぼおっとしてしまって……」

「いいんですよ。楽にしていてください。今、保坂(ほさか)にお茶を入れさせますから……」

 保坂というのは、わたしの結婚と同時にこの家に雇われたメイドの名だ。唯さんが結婚し、家を出てしまったので雇われたらしい。つまり、この家ではそれまで唯さんがメイド的な役も熟していたということになる。

「いえ、お義母さま、お茶は、わたしが煎れますから……」

「あなたにお任せしたいときにはそう言います。今は寛いでいて……」

 義母が手を打ち、メイドを呼ぶ。直後、義母の合図に飛ぶようにやって来たメイドが早口で言う。

「先生、何の御用でしょうか」

「お茶をお願い。尚子さんとわたしの二人分を……」

「畏まりました」

 テキパキと指示に従う保坂さんはわたしよりも若い。顔は可愛いが、女の色気のようなものは感じられない。

「子供でしょ」

「えっ」

「保坂憲子(のりこ)のことよ」

「はい、見た目は……」

「わたしの小説が好きなんですって……。それで弟子にしてくださいって」

「そうだったんですか」

 知らない情報なので、わたしが驚く。

「いきなり家を訪ねて来たのよ。勇気があると思わない……」

「ええ、まあ……」

 重ねて、わたしが驚いてしまう。わたしと偏さんが家にいない間、そんなことがあったのか、と。

「……といっても。わたしに弟子を採る気持ちはないし、秘書兼小間使いには降旗がいるし……」

 降旗というのは、もう十年以上義母の秘書を務めている女性のことだ。名を絹代さんと言う。年齢は義母と同じで五十代前半だが、見た目は老けて六十代に見える。義母に言わせれば、わたしが無茶を言うからこうなったのよ、となるらしい。

「それでメイドに……」

「そう。弟子を採る気はないけどメイドは探しているから、その気があるなら考えて、と言ったら、即断で、お願いします、ですからね。まるで昔のわたしみたい。その後、こちらから保坂さんのご両親に連絡して、さあ大変……」

「その節は、ご迷惑をおかけしました」

 するとそれまで気配もなくお茶を運んできた保坂さんが不意に存在感を増す。義母に対し、悪びれずに言う。

「父と母を説得していただきまして……」

「大学を中退して作家のメイドになると言われれば、どんなご親御さんだって反対するわ」

 義母がわたしにそう説明する間に保坂さんがお茶のカップをテーブルに置く。そこで香りに気づき、紅茶だとわかる。最初に義母がティーカップに口をつけ、一口味わうと、

「ヌワラ・エリヤにしたのね」

 と保坂さんに問う。わたしには何の事だかわからない。

「どうして……」

「セイロン島中央部算出。水色は淡い橙赤色。ストレートティー向き。草いきれのする爽やかな香気。優しく穏やかだが、しっかりとした味。先生の小説に出てきました。お口に合いましたでしょうか」

 保坂さんが義母に問うと義母がわたしを見る。その意味はわかったから、わたしがヌワラ・エリヤを口に含む。うーん、正しく表現された味だ。

「美味しいですわ」

 他に言葉もなく、わたしが言うと、

「そう。ならば良かった」

 義母が顔を綻ばす。それは、わたしがこれまで見たことがない義母の表情だ。

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