30 闇
「随分とお久し振りなような気がします」
会社の元同僚の結婚式二次会でわたしが言う。
「きみもそうだが、今年は結婚退社が流行っているぞ。今日で四人目だ」
頭髪の後退が更に進んだ入江良光(よしみつ)課長がぼやく。結婚前までの、わたしの不倫相手だ。
「知由(ちゆ)ちゃんはお元気ですか」
「娘にはまだ嫌われていないよ」
「それは何よりです」
「妻の方はどうか知らんが……」
わたしも課長も隣席に座ることを求めていない。だからビル地階の薄暗い飲食店の奥テーブルに押し込まれ、隣席になったのは偶然の悪戯。わたしが偏さんと結婚するまで勤めていた会社の事業所は大きくない。だから社員全員が顔見知り。けれども、その場にわたしと入江課長それぞれに親しい者がいない。それで話し相手が限られてしまう。
「きみの結婚式と比べると地味だっただろう」
「わたしの場合が異常だったんですよ」
「数は少ないがマスコミもいたそうじゃないか」
「世間は嫁と姑の諍いが好きなんです」
「記事は出なかったが……」
「お察しください」
「さすがに売れっ子作家は違うんだな」
「仕事のことはわかりませんが、義母は良い人ですよ」
「旦那さんも良い人なんだろう」
「課長は新婚のわたしに何を言わせたいんです」
「いや、幸せならそれでいいんだ」
「もちろん、幸せですよ」
けれども、わたしの心の中にあるこの孔は何だろう。ビュービューと風が吹き抜ける深くて暗い孔は……。
「済みません、先輩と課長を放っておいて……」
わたしより四つ年下の女子社員が狭い空間に身を乗り出し、大声で謝る。確か苗字は宇津木さん、だったと思う。が、確証がない。わたしが所属していた部とは別の部署だったから誰かとごっちゃになっているかもしれない。
「何を飲まれますか」
「わたしはウーロン茶。で、課長は……」
「じゃ、おれはウーロンハイ」
「ウーロンハイだってさ」
「はい、わかりました」
が、それから暫くして、わたしと入江課長二人に届いたのは同じウーロンハイ。
「おい、これ両方ともお酒じゃないか」
入江課長がわたしに気を遣い、文句を言おうとするので、
「いいですよ。帰りながら醒ましますから」
座の雰囲気を毀すのも気になり、わたしが止める。
「はい、課長、乾杯……」
「ああ、乾杯……」
カチン。
寂しい音を立て、二つのグラスが触れる。まるで、わたしの気分を表すかのように……。
「これを飲んだら帰りますから……」
「そうだな。おれも帰るよ。そろそろ二次会も開くだろう」
それから約三十分後、わたしと入江課長が地下鉄駅に向かって歩く。偶然だが、他に連れはない。途中まで一緒に歩いて来た者にスマートフォンがかかり、短い通話の後、予定を変えたからだ。
「若い人は自由だね」
「課長だって、まだ若いでしょう」
「そうかもしれんが、いろいろと重い」
「知由ちゃんのためにも頑張らないと……」
「こんなところで言う話ではないが、何故きみはおれに抱かれたんだ」
「さあ、魔が差したのでしょう」
「そうか」
「今後会社で、わたし以外の課長の犠牲者を出したら承知しませんからね」
「きみとああなるまで、おれは自分が浮気をするとは思っていなかったよ」
「わたしの方も、まさか会社の上司と不倫関係になるだなんて……」
「でも終わって良かった」
「そうですね」
「妻は気づいていたようだ。相手とわかっていたとは思えんが……」
「それでさっき、あんな言葉を……」
「妻は見逃してくれたのかな」
「そんなこと、わたしに聞かないでください。わたしは昔も過去も入江課長とは何の関係もありません」
「そんなに強がるなよ」
「えっ」
「悲しくなったら、おれのところに来ればいい。もちろん、もう前のように身体でどうこうすることはできないが、話くらいは聞いてやるさ」
「ばか」
「……」
「もう一度そんなことを言ったら、わたし、課長の奥さんではなく、知由ちゃんに課長とのことをバラします」
「おいおいおい……」
「わたし、本気ですから……」
「だから、おい、尚子くん……」
「失礼します。やっぱりタクシーに乗って帰ります。さよなら……」
が、そう言い放つわたしの心の中には深い闇がある。
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