31 講

「はあ、疲れたな」

 教授に言いつけられた用事を済ませると早午後九時だ。既に教授は帰りの車中にいる。そろそろ家に着く頃かもしれない。セオドア・ブリッジマンは理論畑の教授で専門は宇宙物理学。テレビ出演を厭わないので世間一般にも名が知られている。そのせいもあり、教授の研究室への希望者は多い。が、当然のように、それは狭き門。スタッフともなれば尚更だが、取り敢えず、おれは研究助教(research assistant professor)の形で採用される。教授関連の研究だけを担う役割で大学ではなく教授本人に雇われている。だから教授というボスがいなくなれば大学を辞めなければならない。もっとも教授が言うには、大学に於ける通常の助教ポストが詰まっているので便宜上そうした、ということだ。他にも数人同じ立場の人間が研究室にいる。既におれは助教の審査には受かっているから、問題を起こさなければ、いずれ採用になるはずだ。当然のようにブリッジマン教授に見限られれば、その限りではないが……。

「ヨウジ先生、ちょっといいですか……」

 大学院生が少なからず残る研究室を見てまわり、構内の廊下を歩いていると声をかけられる。本来学生相手はおれの仕事ではないが、そういった点はルーズな教授。おれが学生にモノを教えることで研究が進むとは夢にも思っていないだろう。世間の例では廻りまわって研究に成果を齎すきっかけになることもあるようだが……。新参者を小間遣いのように扱う点では日本の大学教授と似ているかもしれない。ただし日本の場合と違い、おれにかかる経費はすべてブリッジマン教授の自費なのだ。

「何だ、ディスティニー。どうした……」

 ブリッジマン教授担当の基礎物理学を受講するディスティニー・ホールが声の主。以前、授業後に研究室に質問に来たが、運悪く教授外出のため、おれが彼女を担当する。その際、名を覚える。今どき流行っているのか、黒く太いフレームの眼鏡をかけた女学生だ。飴色の髪は長いが、アメリカ人の基準から言えば背が低く――つまり、おれと同じくらいで――、美人とは言えない。その代わり愛嬌があり、勉強熱心だ。

「また、わからなくなってしまって……」

「また、ってことはガウスかストークスの定理関連かな」

「はい、そうです」

「じゃあ、話を聞こう」

 食堂かカフェに誘っても良かったが、無人の小教室が目の前にある。だから、そこを借りることに決める。照明をつけ、黒板のある奥の教壇のところまで二人で歩く。途中、ディスティニーの髪が、おれの鼻腔に甘い香りを味あわせる。

「で、どんなことを……」

 ガウスの発散定理は面積分とダイバージェンス(発散)との関係を示す。一方のストークスの定理は線積分とローテーション(回転)との関係を示す。関係を示すというよりは対応を与えると表現した方が正確かもしれない。ともにベクトル解析分野で重要な積分定理だ。平面のグリーンの定理も、その一つ。

「最初に閉曲線に対する線積分を考えますよね。閉曲線の線積分は閉曲線に沿った成分を取り出して集めるからベクトル場が閉曲線に沿っているほど値が大きくて……」

 ディスティニーの質問内容はストークスの定理関連らしい。

「閉曲線に沿っているベクトル場は、 その方向に回転している場で、回転していないベクトル場の場合、経路と同じ方向のベクトルと……」

 ディスティニーの話を聞いていると、どうやら数式の意味は理解できるのだが、実際的なイメージが見えてこない、ということだとおれにわかる。それはストークスの定理に登場する回転(curl)についても同じだったから、回転を糸口に説明することにする。結論から言えば回転は流れのある川の中に置かれた水車の動きの微分演算子化なのだ、と解き明かす。知らない人には意味不明な内容だが、ディスティニーは話の節目毎に目を輝かせながら理解してくれる。

「アメリカでは回転をcurlと書くだろう。これは電磁気学の始祖マックスウェル由来だから意味がある。けれども同じ微分演算子を日本ではrot(ローテイション)と書くことが多い。おそらくドイツ系の数学者達が始めた記法だと思うな。つまり水車のイメージならばcurl(カールさせる、縮らす、ひねる、ねじ曲げる、丸くなって寝る、丸くする、巻く、巻きつける)よりもrotation(回転、循環、自転、交替、輪番、輪作)の方がイメージし易いということだ」

 おれは然も自分で発見した解釈のように『回転は水車なのだ』とディスティニーに説明する。実はある著作からの盗用だが……。おれは学生時代にその解説書を読み、自分の中でモヤモヤしていたものが解消された経験を持つ。おそらく今宵のディスティニーのように……。

「遅くなった……」

 時計を見ると先程から一時間近く経っている。さすがに腹が減ったが、それはディスティニーも同じだったらしい。グーッ。まるでタイミングを見計らったようにディスティニーの腹の虫が鳴く。ディスティニーは瞬時顔を真っ赤に染めたが、それがおれにあることを思いつかせる。

「ディスティニー、きみに時間があるなら、おれの家でご馳走するよ」

 事前に妻に連絡する必要はあったが、もちろんイヤとは言わないだろう。おれのまわりには職場の同僚や学生が大勢いるが、妻には、この土地での知り合いが少ない。偶には違う相手と話すことも息抜きになるだろうと考えたのだ。

 早速スマートフォンで家に連絡を入れると、

「ええ、もちろん大歓迎よ」

 という返事。それで心置きなく、おれはディスティニーを車に乗せ、可愛い妻の待つ自宅に向かう。

 当然そのときには、おれとディスティニーが不幸な関係になろうとは夢にも思いはしない。

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