32 料
「良くいらっしゃいました」
おれが開けた玄関ドアの向こうで妻が言う。
「オハツニ、オメニ、カカリマス」
おれとほほ同じ背の高さのディスティニー・ホールがカタコトの日本語で妻に応える。
「日本語がお上手ですね」
続けて妻が言うと、
「済みません。まだ意味はよくわかりません」
ディスティニーが英語で答える。おれは妻にディスティニーが今口にしたことを耳打ちするが、内容が簡単なので妻も理解していたようだ。が、おれの説明にも納得したように首肯いてくれる。夫を立てる妻なのだ。
「それなら、わたしも英語にしようかしら」
「それがいいだろう。わからならければ、おれが補足するよ」
「助かります。さあ、とにかく上がってください」
妻がディスティニーを家に迎え入れ、おれは普段着になるため寝室に向かう。ダイニングキッチンに戻ってくる頃には妻とディスティニーがまるで旧知の仲のように談笑している。
「彼女、日本に興味があるみたいなの。お隣さんもそうだし、嫌われなくて助かるわ」
「そうか。それは良かったな」
笑顔で応えつつ、おれも遅い夕食が並べられたテーブルに着く。
「日本食みたいなものが少ないので残念ですけど……」
妻はそう言うが、主食がご飯なので、それだけでも日本風だ。
「いえ、とても美味しそうです。あの、これは何……」
「ああ、それは卵のお豆腐。日本のモノね」
今宵、我が家の食卓に並んだ料理は肉と野菜だ。肉が魚に変わる夜もあるが、おれが肉体労働者に変わる夜には肉が出る。結婚当初は、それにゆで卵などが添えられる。最近では、だし巻き卵や卵豆腐が饗される。妻なりのアレンジなのだ。レシピの数も、料理の腕も、このところ妻はメキメキと腕を上げている。
「では、いただこう」
おれがそう言い、全員で食膳の祈りを捧げる。もっとも日本人の二人は単に、いただきます、と唱えただけだが……。
「ユイさん、これから食べても良いかしら」
ディスティニーは卵豆腐に興味津々のようだ。
「どうぞ、どれからでも……」
「では、いただきます」
妻が用意したやや大きめのティースプーンーでディスティニーが卵豆腐を口に入れる。直後、不思議な顔つきをし、妻の顔を見る。
「あら、お口に合わなかったかしら」
すかさず妻が問うと、
「これと同じ味のものを食べたような気がします」
というディスティニーの返答。暫し考えた後、妻が、
「きっと茶椀蒸しだわ」
と気づいて言う。
「でも『茶碗蒸し』って英語でどういうのかしら。……Steamed egg?」
妻が考え込んだので、おれが助け舟を出す。
「それでも間違いではないと思うけど……。たぶん、Non-sweet egg custard(甘くない卵のカスタード)じゃないかな。エッグ・カスタードだけでも通じると思うが……」
「そうなの」
「ああ、なるほど……」
妻とおれの会話を聞いていたディスティニーが納得する。
「薄味の茶碗蒸しですね」
「具のないね」
「どうやって、これを作るんですか」
「今日は圧力鍋で作ったけど、蒸し器でも基本は同じね」
そう言い、妻がディスティニーに卵豆腐の調理法を伝授する。
「まず卵を割って掻き混ぜて、だし汁――ってわかるかな――と合わせ、ぺーパーか濾器で濾し、陶器を水にくぐらせて泡があれば潰し、後は過熱ね。圧力鍋なら水を一センチメートル……五分の一インチ程張って低圧で一分くらい。普通の蒸し器なら最初の三分か五分くらいを強火で加熱。表面が白くなってきたら弱火で十五分くらいかしら……」
閊(つっか)え、閊えだが、妻が自力でディスティニーにレシピを伝授し、最後に、
「わたしの言うことがわかったかしら」
と締め括る。もちろんディスティニーは笑顔で首肯いている。その間、おれは独りで飯を食っていたわけだが、疎外された感じはしない。寧ろ二人の親密さを分けてもらい、ふんわりとした心持ちだ。
「ああ、お肉も美味しいわ」
それから徐々に食事を平らげていったディスティニーが感嘆しつつ、口にする。
「ヨウジ先生は可愛い上に料理上手な奥さんがいて羨ましい」
と続けるから、
「それならきみもぼくの妻のような、お嫁さんを貰えばいい」
おれが応える。
「そうね。レズビアンじゃないのが残念……」
ディスティニーが特に気にした様子もなく口にする。土地柄もありロサンゼルスはゲイもレズビアンも少なくない。が、十年程前にアメリカ史上初の女性同性愛者を主人公としたテレビドラマが放送開始されたことも、その雰囲気を後押ししているのだろう。……とはいえ国民の約八十五パーセントがキリスト教信者だ。その価値観は根強く、子作り以外の性交渉が禁じられている。だからコンドームを用いたおれと妻のセックスも――最大ではないが――タブーを犯していることになる。
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