33 話
「尚子さんは小説を書いたりしないんですか」
鴻上家の……というより作家、鴻上沙苗のメイド、保坂憲子がわたしに問う。義母の前では『若奥様』と呼ばれるわたしだが、そうでないときには、勘弁してね、と言い置いたのだ。それで呼び名が尚子さんに変わる。敬称に伴う上下関係も消える。
「憲子さんと違って、わたしには才能がないもの」
「そりゃあ、あたしは自分では才能があると思ってますけど……」
保坂憲子はわたしよりも若い。唯さんよりも若い。漸く成人になったばかりだ。
「せっかく、この家にお嫁さんに来たのに勿体ない」
「だから、わたしはあなたとは違うのよ。単に偏さんに貰われただけ……」
「昔から恋人だったんですってね」
「義母に聞いたの……」
「いえ、他から……」
「お喋りな人が多いわね」
「先生も時々ウンザリしてます」
「やっぱり村上さん辺りが面倒なのかしら……」
「あたし、あの人、スパイじゃないかと疑っているんです」
「スパイって、いつの時代よ」
「その昔、この国の傀儡国家があり、そこの利権がまだ生きてるんですよ」
「それがスパイ……」
「間接的にですけど、先生はそれを利用され、伸し上がった」
「わたしにはお伽噺だわ」
「現代のお伽噺ですべ」
「そうかも」
「尚子さんはお嬢様だから、そう思われるんですよ」
「スパイの話に、お嬢様が関係あるの。それに、わたしの父親は単なる会社員よ」
「でも大企業でしょう。しかも部長職……」
「それは、そうだけど……」
「もちろん超一流企業と比べれば下の下なんですけどね。中小よりは遥かに上……」
「考えたこともないわ」
「だから、お嬢様なんですよ」
「そうかな」
「少なくとも、あたしとは違います」
保坂憲子の父親は会社員。その点では、わたしと同じだ。けれどもわたしの父とは違い、町工場のようなところで勤務しているらしい。
「だって日本の町工場は優れているんでしょ」
「あたしの父は経理だから、そういうの全然関係なくて。しかも出向……。正直に言えばリストラ……」
「つまり憲子さんもその昔はお嬢様だったわけね」
「尚子さんよりレベルは低いですけど……。思い返せば、その一員だったみたいです」
平日の午後で偏さんは会社だからいない。尚子さんの師匠でわたしの義母、鴻上沙苗は外出中。供に降旗絹代を連れて……。
「今日、あたし、ハブられたんです」
「憲子さんにはできない仕事だったんでしょ」
「先生に信用されていないんですよ。小娘だから……」
「本当に信頼されていなければ、この家に雇われないわ」
「確かに、それは救いですね」
「それはそうと憲子さんは小説とかを書いてお義母さまに見せているの……」
「小説は書いて、先生に渡していますが、まだ読んでいただけていません」
「あら、そうなの……」
「残念ながら……」
「じゃ、わざとなのかな」
「何がですか……」
「お義母さまが、憲子さんには才能があるとわたしに漏らしたのが……」
「本当ですか……」
「でも続きを言えばガッカリするかも……」
「怖いけど、言ってください」
「モノが書けるというだけのありきたりの才能……だそうよ。でもモノを書けない……じゃないわね、書かない人にはない才能」
「褒められた気がちっともしません」
「憲子さんは、お義母さまが殆ど批評をしないことを知っているわね」
「ええ、だから文学賞の選考委員も短い期間で辞めています」
「お義母さまのことは何でもご存じなのね」
「調べてわかることなら……」
「だったら、お義母さまは憲子さんのことを褒めているのだと思うわよ。そうでなければ、あんなことは言わないわ」
「つまり、先生はあたしの作品を読んでくれたってことですか」
「お義母さまは現物を確かめずに意見を言う人ではないわ。もっともパラパラっとだけかもしれないけど」
「……だとしたら、恥ずかしい」
「何が……」
「自分の小説を読まれたことがですよ」
「弟子が師匠に小説を読まれて何処が恥ずかしいのよ」
「自分の実力のなさですよ」
「仮にそうなら、お義母さまみたいに百万の人に読まれるのが、どんなことだかわかるわよね」
「尚子さんって伊達に歳を取ってないんですね」
「何よ、それ……。それから、もう一つ、お義母さまが仰ってたのは……」
「何ですか」
「あなたはは男を知らないだろうって……」
「あちゃーっ」
「でも、お義母さまは、それが生涯続くならまた面白い、とも仰っていたわよ」
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