26 陰

「では、その辺りをはっきりとさせておきましょう」

 わたしが言うと池ノ上先生がこちらを向く。わたしも、もう庭の栗の木を眺めていない。

「礼三郎が海運事故でクレーンに巻き込まれたことはご存知ですね」

「ああ、不幸な事故だった」

「その後、礼三郎が死ぬまで約半年あります」

「わしは知っておるが偏や唯さんは知らんだろう」

「おそらく……。わたしから話したことはありません」

「それで……」

「先生はどこまでご存知ですか」

「沙苗さんが心の整理をつけたいなら自分で言うべきだな」

「はい。幸いにも礼三郎は直接命に関わるような怪我をしませんでした」

「脚と腕を折ったと聞いている」

「それに内臓も少し痛めました。ですが最大の損傷は」

「……」

「生殖器でした」

「良く言ったな、沙苗さん。思い出せば辛かろう」

「生殖器がすべて無くなりました。精巣も陰嚢も陰茎も……」

「だが命に別状はない」

「ですが、礼三郎はわたしが抱けなくなったのです」

「一般的なセックスのできない夫婦など幾らでもおる。それでも幸せな性行為をしている者が多くおる」

「先生だったら、どうだったでしょうか」

「想像したくもないよ」

「わたしは礼三郎の命が助かったと知ったとき自分を無くすほど泣きました」

「その写真は見たな」

「礼三郎も最初は身体の無事を神に感謝していたようでした」

「そういえば鴻上(こうがみ)家はカソリックだな」

「ええ」

「それで……」

「けれども手が動くようになり、自分の性器がすべて失われていることを知ると……」

「どんな男でもそうだろう」

「結局、礼三郎は立ち直れませんでした」

「長い時間があれば……」

「わたしがいけないのです。うっかり目を離した隙に……」

「自殺か」

「はい。公式には事故ですが……」

「保険金は下りたか」

「ええ、満額……」

「なるほど。しかし礼三郎くんが生きておる期間に沙苗さんは唯さんを身籠った……」

「今では先生にお願いすれば良かったと後悔しています」

「バレたら余程、面倒だぞ」

「はい、それも考えました」

「誰の子なんだ」

「さすがの先生もご存じないと……」

「当時調べればわかったろう。だが、わしは沙苗さんのことを愛していたからな」

「普通の愛ならば逆ではありませんか」

「嫉妬に狂い、相手を殺すと……」

「ええ」

「わしはそう思わなかった」

「ありがとうございます」

「その代わり、その後も沙苗さんの身体を何度も抱かせてもらった」

「それは、わたし一人ではないでしょう」

「沙苗さんを嫉妬させようとしたのだよ」

「相手の方たちが可哀想……」

「けれども沙苗さんはわしに嫉妬をしなかった」

「ええ」

「当然だな、わしを愛していないのだから。単に利用しただけで……」

「すべてが嫌いな人ならば抱かれません」

「譲歩か」

「譲歩です」

「今日も譲歩か」

「いえ、今日はお礼に……」

「これからについての、お礼だろう」

「わたしの身体はもう長くありません」

「占い師もそう言っておった」

「どれくらい持つと……」

「一年までない」

「あら、思ったより長いわ」

「用意万端かな」

「だから心配事は唯だけ」

「今は遠いアメリカのカルテク(カリフォルニア工科大学)のある街だ。当分、帰ることはあるまい」

「ええ、次に日本に来るのは、おそらくわたしのお葬式でしょう」

「滅相もないな」

「事実ですから」

「言葉がない」

「偏を守ってやって下さい」

「しかし出ぬ釘は打たれんだろう。尚子さんといったか、相手の女性も控えめな人だ」

「それはわかっていますが、わたしが死んだら手を差し伸べられない」

「化けて出ればいいさ」

「そうできるものならばそうします」

「沙苗さんは、わしの処にも出るかな」

「先生がわたしとの約束をお破りになれば……」

「おお、怖い。くわばら、くわばら……」

「ですが、わたしにはわかっています。先生が陰から偏を見守って下さると……」

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