15 饗

「まあ、張り込んだわね」

「きみは食べるのが好きだろう」

「昔はそう言われるのが恥ずかしかったな」

「今では……」

「やっぱり恥ずかしいけど、あなたの前だと安心できる」

 久し振りのデートで偏さんが選んでくれたのはスペイン料理のレストラン。わたしはお店には詳しくないけれど、カジュアルな有名店だということは、さすがにわかる。

「奮発ね」

「ぼくの稼ぎからだよ。でも遡れば、結局は母の脛かな」

 偏さんの現在の職業は一流商社の総務部員だ。今では小説家として有名な偏さんのお母さんの亡くなられたご主人の親戚が創業者家族。財閥系ではない酒蔵上がりの民間企業だが、バブル期に一気に業績を伸ばし、その後の崩壊を見越したように泡面をサーフ。偏さんのお母さんもバブル期を上手く乗り越えたそうだが、そのとき財産管理を任せたのが偏さんが勤める商社の現在では副社長の伯父さんだ。……という事実を、わたしは偏さんから教えられる。わたしとは縁もゆかりもない話だと知りながら……。何かの間違いで将来、わたしが偏さんの妻になったら親戚付き合いをするのだろうか。

「映画館では疲れなかった……。偏さんの場合、座っているだけでも辛いときがあるでしょう」

「いや、面白さに引き付けられたよ。だから疲れたといえば、話の展開に引き込まれたせいかな」

 本日のデートの始まりは映画鑑賞。事前に、わたしに観たい映画はないか、と偏さんが訪ね、そういえば気にかかっている映画が数本あったので、その中から選んで貰う。偏さんのセンスが光る瞬間だ。もしかしたら鑑賞候補作すべてが傑作だったのかもしれないが、偏さんが選んだ映画は間違いなく面白く、長い間隙のあるわたしたち二人に十分な会話素材を提供してくれる。途中、偏さんが少し疲れた顔を見せたので、わたしは昔の経験から心配したが、その後はそんな様子もなく、満面の笑みで、わたしを見つめてくれる。

 改めて思い出すまでもなく、わたしは偏さんのこの笑顔に囚われ、交際を承諾したのだ。良い人という意味では女子にモテなくもなかった偏さんだが、見るからに貧弱な身体つきに若過ぎる女生徒たちは興味を示せない。隠すつもりはなかったが、当時のわたしにも気おくれがあり、クラスメイトや部活の仲間に偏さんと付き合い始めたことを積極的に明かせない。が、当然のように付き合って一月もしないうちに噂になり、わたしは好奇の目にさらされる。まだ中学生だったから、さすがに金目当てだと邪推される例はなかったが、所謂モノ好きだな、という視線が結構痛い。

 わたし自身、一時の感情で偏さんの申し出を受け入れたものの、自分が本当に偏さんのことを好きなのかどうかをわかっていなかっただけに視線の痛さに閉口したものだ。もっとも、それをいえば今のわたし自身の気持ちの方が、わたしには理解し難いかもしれない。

「まだ十代後半の娘を自分の映画に呼んだとき、親である監督は舐めるように娘の裸身を撮影したというよ。いわゆる恋するオスの視線で……」

「ふうん」

「もっとも、それで近親相姦疑惑が出たわけじゃないけど……。例のコメディー監督とは違って」

「偏さんは映画にも詳しいのね」

「そんなことはないさ」

「じゃあ、事前準備ね。偏さんらしいわ」

「まあ、そんなところ」

 そうこうするうち、ディナーコースが運ばれてくる。最初がタパス。オリーブオイルたっぷりの一口パンにチップスだ。次が毛ガニとレタスのコカ。コカはスペイン東部発祥のパン。食感がしっかりしたコカとライムで和えた毛ガニにマンゴーソースが添えられている。つき合わせのオリーブオイル・パンはしっとりと柔らかい。手長エビのサルモレホはマンサニージャ風味。サルモレホはガスパチョと人気を分けるスペインの冷製トマトスープのこと。酸味がすっきりとしていて爽快感があるが、これが手長エビの甘味を存分に引き出す。ちなみにマンサニージャは白く透明な辛口シェリー酒のこと。こちらも手長エビの旨味を引き立てる。白イカの温製サラダにはイカスミが添えられている。もちろん潰して一緒に食す。スジアラのオーブン焼きはソースが決め手。オリーブオイルにニンニクの香りと風味を移してから乳化させており、酸味が強く、食欲をそそる。花ズッキーニの詰め物は可愛らしい盛り付けだ。店で特に自慢の料理らしいイベリコ豚の一品は三層からなる豚の内蔵と血で繋いだ腸詰めゼリー。パースニップ(セリ科の二年草でニンジンに似た根菜)のピューレを合わせ、黒トリュフを贅沢に使うが、思ったよりもさっぱりとしていて後に旨味が滲み出る。皿の外側には小さく切った野菜類が並べられ、綺麗だ。豚足とマッシュルームアロスメロッソは偏さんが特別に追加したお皿。わたしのお腹に余裕があると察したのは元彼の強みか。蜂蜜のようにトロリとしたリゾットで、芯を残したお米の食感がまた食欲をそそる。デザートのトロピカル・スイーツはココナッツミルクのムースにマンゴーのソルベ。全体がオリーブオイルでまとめられている。ワインのテイスティングはラ・フォー・エル・アメレルス(柑橘系の爽やかなワイン)、ディド・マカベオ・ガルナッチャ(アメレルスよりはコクのある強めの白)、シエラ・カンタブリア・レセルヴァ(落ち着いた味わいの赤)で偏さんは赤を選ぶ。それ以外のワインはトリガ。少量生産のスペインワインで余韻/複雑性/肌理細かいタンニン、と三拍子揃った味わいの赤フルボディ。

「ごちそうさま」

 ディナーを十分に堪能し、わたしが言うと、

「それは良かった。では今度は、ぼくがきみを堪能する番だな」

 偏さんが、わたしが付き合っていた頃には考えられなかった科白を口にする。

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