第二章 13 招
「まあ、そう緊張することもないだろう」
母の宣言から約二時間後、わたしは池ノ内守恭(もりやす)先生の別邸にいる。
「沙苗(さなえ)さんに強要されてきたものの、どうせ、まだ決心はついておらんのだろう」
まるで自分の孫を見るような目付きわたしを見る。が、わたしには答えるべき言葉がない。
「最初の数回は唯さんの様子見だ。身体の柔らかい部分に触れることはないだろう」
「……」
「信用できんか」
「……」
「お茶でも飲もう」
そう誘われ、別邸で最初に案内された洋風の居間から和室に移動するとお茶の用意がある。
「座りなさい」
池ノ内先生の小間使いが用意したものだろうが姿も気配もない。わたしには、それが怖ろしい。
「気にすることはない。慣れれば良い」
「……」
「座りなさい」
「はい」
池ノ上先生の別邸に来て初めて、わたしは自分の意志で声を発したようだ。おずおずと座布団に尻を下す。夏は炬燵になるかもしれないテーブルに置かれたお茶の匂いが香ばしい。廊下を隔てた庭の造形も素晴らしい。が、わたしに鑑賞する余裕がない。
……と、池ノ内先生を見れば、美味しそうにお茶を啜っている。
「遠慮しても始まらないよ。飲みなさい」
「いただきます」
そう言い、わたしがお茶を啜る。思わず、はあ、と溜息を吐きたくなるような味なのだろうが、わたしは舌まで麻痺している。熱いか温いかさえわからない。
「今は唯さんの方が緊張しているが、一年後、いや、半年後にはわしの方が緊張しているかもしれん」
「……」
「不思議な顔をするな。唯さんは妖婦なのだよ。本来の素養が目覚めればな」
「……」
「わしらのような金の亡者は皆、専属の占い師を持っておる。その中の一人が言いおった。若い頃を別にすれば、わしはこれまで女に執着したことがない。そのわしが唯さんに執着するかもしれん、とな」
「まかさ」
「わしも、まさか、と思ったさ」
「……」
「何故なら、唯さんのことは、わしは生まれたときから知っている。だから、こいつ、いよいよ頭が狂ったか、とわしは思った。だが沙苗さんに頼まれ、こうして二人きりとなった場所で唯さんを見ると、わしにも成程と思えてきた。男を知らない清楚な女性のはずの唯さんなのに妖気がある。今まで気づかなかったが、しかし数年前にはなかったはずだ。だから何かがあったのだな。この数年のうちに……」
「……」
「普通に考えれば、それは恋だろう、しかしあの家だけという狭い世間にいては恋する相手もいないはずだ。……とすれば偏か、あいつの友の湯沢くんか」
「……」
「湯沢くんが唯さんに恋しているのは、わしはかなり前から見抜いている。だが唯さんの方には何の気持ちもないだろう」
「……」
「……とすれば偏だが、あいつはマザコンだぞ」
「……」
「一般的な意味でのマザコンとは違うが、それは沙苗さんが自分に厳しい人だからだ。そうでなければ沙苗さんと偏は実質上の夫婦になっておるよ」
「そんな」
「唯さんには悲しい事実かもしれんが、わしは沙苗さんが偏の筆下し……つまり初めてのセックスの相手をしたのでないかと疑っておる」
「そんな」
「いや、きっとそうだろう。偏は意気地がない人間だ。身体の弱さがその原因だが、沙苗さんに大事にされ過ぎた」
「……」
「唯さんとは反対にな」
「わたしのことはいいんです」
「唯さんが心配せんでも唯一度だけのことよ。尾は引いていない。沙苗さんが自分に二度目を許すはずがない。母として偏に自信をつけさせようとしただけだからな。それに世間の常識からすれば、方法は異常だが、実は珍しくもない」
「そうなのですか」
「愛する息子のために、あなたを生んだ沙苗さんの決心の方がよっぽど稀だ」
「そうなのでしょうか」
「先例はある。だが、わしはこの生涯で三例しか知らん」
「そうでしたか」
「そのうち一例は介護者自身が有名になった。母への恨みをバネに才能を花開かせた」
「……」
「しかし、そのまま天狗になっていれば良かったものを結婚し、親とは呼べない親となった」
「……」
「自分では気づけず、精神的に虐待を続けている息子に、やがて殺される日が来るかもしれんな。社会的に……」
「怖いお話……」
「わしにはもう関係のないことだが……」
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