12 頼

「唯さん、お話があります」

 珍しく母が、わたしの名を呼び、書斎に呼びつける。

「何の御用でしょうか、お母さま」

 畏まった声で、わたしが言う。

「また粗相を致しましたでしょうか」

 が、母はすぐに言葉を口にしない。わたしの全身をつくづくと眺め、困ったように幾度か溜息を吐く。わたしがこれまで見たことがない母の態度だ。

「これから唯さんにお願いをします」

 暫くして母が己の困惑を振り払うかのようにわたしに告げる。

「以後話すことは他言無用です。宜しいですね」

「はい、お母さま」

 いったい母は、わたしに何を命ずるのだろうか。わたしの困惑が増していく。

「あなたのお兄さんは身体が弱い。だからこの先、結婚できない可能性があります」

「はい」

「もちろん結婚というのは単に身体だけの関係ではありません。けれども、この家に財産目当ての女を招くわけにはいきません」

「はい、お母さま。ですが……」

「唯さんが心配しなくても今のは仮定の話です。しかし、いずれわたしが死んでしまえば必ずしも仮定とは言えなくなるでしょう」

「はい」

「だからわたしは唯さん、あなたに後を託すのです。偏に伴侶ができなかったとき、あなたに偏の性処理をお願いしたいのです」

「えっ」

「二度は言いません。それにあくまで、わたしが死に、偏に伴侶ができなかったときの話です」

「お母さま……」

「唯さんが偏のことを兄として慕っていることは承知しています」

「はい」

「だから敢えて言いますが、愛してはいけません。あくまで偏の性処理をするだけです。宜しいですか」

「はい、お母さま」

「こんなことを言わなければならないなんて、わたしも辛いのですよ。けれどもこんなことを頼めるのは、お腹を痛めた自分の子以外にありません」

「はい」

「承知して貰えますね」

「はい、お母さま。ですが、わたしはまだ……」

「唯さんがまだ男の人を知らないことは知っています」

「はい」

「だから唯さんには性の教師をつけます」

「性の教師ですか」

「そうです。あなたもよく存じている池ノ内先生にお願い致します」

「池ノ内先生ですか……」

「そうです」

「ですが、お母さま、池ノ内先生はご高齢で……」

「先生はまだ七十歳を越えたばかりですよ。高齢などと言ったら叱られます」

「はい」

「確かに見た目はお爺ちゃんでしょうが、男性機能は失っていません。また齢を重ねた分、性に対する種着もない」

「執着ですか」

「唯さんの身体に執着することがないという意味ですよ。並みの老人ならば、若い娘の肉体が与えられれば溺れるでしょう。けれども池ノ内先生には、それがない。詳しいことはお話しできませんが、前例が幾つもあります」

「前例ですか」

「それに、お年なのに、お口も臭くありません。老人臭も殆どない。若い男と比べれば体力の衰えは顕著でしょうが、唯さんの奉仕相手は偏だけですから却って良いかもしれません」

 いったい、わたしは母にどう答えれば良いのだろう。

「わたしから話すことは以上です。迎えが来たら出かけてください」

「まさか、今日からですか」

「そうです、これからです。これまでこの家から――学校と買い物以外――一度も外に出たことがなく、また恋の経験もないあなたに、一回や二回のレッスンで性の奉仕者が務まるはずもありません。少なくとも一年間はレッスンが必要だと母は考えています」

「けれども、お母さま」

「レッスンの暁には唯さんが大好きな偏の閨の相手ができるのですよ。もちろん、そこに男女の愛はありませんが……。しかし与える快感はあるでしょう。唯さんの報酬は、それ。悪い話とは思えませんけど……」

「しかし、お母さま」

「あなたに、この申し出を断る権利はありません。仮にあなたに謀反の心があり、この家と母と兄を見捨てるというのなら即刻家を出ていきなさい」

「ですが、お母さま」

「池ノ内先生への別邸へ向かう車は遅くても一時間後には来るはずです。それまでに心を決めなさい」

「……」

「もう一度言いますが、わたしも、母も辛いのです。できるならば母がその役を引き受けたい。けれども、わたしには余命がない。仮に偏さんに自信をつけさせることができたにしても、それ以上は無理です。母が母ではなくなってしまいます。だから、これは苦渋の選択なのです。わたしがあなたを生む決心をしたとき、まさかこんな日が訪れようとは考えてもみませんでした。その点では母も浅墓な女です。当然予想してしかるべきことであったのに……」

「しかし、お母さま」

「わたしが死ねば、この家はすべてあなたたち二人のものとなります。幸いにして偏さんに伴侶ができれば、それはなくなりますが……。そのときは唯さんが受けたレッスンも無駄になるでしょう。ですが、わたしにはそのような日々が来るとは到底思われないのです。これまで二十七年間、偏の性格を観察し続けた結果として……。だからわたしは母という人間の心を捨て、心を鬼にし、唯さん、あなたにお願いをするのですよ。唯さん、一生に一度の母の頼みを引き受けて下さいますね」


 第一章(終)

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