11 求
ピンポン。
チャイムの音がしたから玄関まで歩く。自分の部屋ではなく、居間にいたので比較的早い。
「やあ、唯ちゃん」
ドアスコープカメラで確認したから訪問者はわかっている。湯沢洋二さんだ。
「兄でしたら自室にいます」
わたしが言うと、
「いや、今日は唯ちゃんに用があってきたんだよ」
湯沢さんが応える。当然、わたしに思い当たる節はない。
「まあ、お上がりになってください。お茶を入れましょう。兄を呼びましょうか」
「先に唯ちゃんと話がしたいんだけど……」
「湯沢さんがわたしに何を……」
「おれと結婚してくれないか」
「えっ」
「だから、おれと結婚だよ」
唐突な湯沢さんの言葉にわたしが驚く。が、習慣というものは恐ろしく、
「いつものテーブルでお待ちください」
何気ない顔で湯沢さんに告げ、キッチンに急ぐ。その際、振り返りはしないが、湯沢さんの困惑が伝わる。
「どうしてだろう」
お湯を沸かしながら自問するが、わたしにわかるわけがない。
「わたしの気持ちは知っているはずなのに……」
そもそも兄がわたしを好いていてくれる、とわたしに告げたのは湯沢さんなのだ。その湯沢さんがどうして……。わたしの思考が空まわりする。……と同時に、わたしは一つの事実に気づいてしまう。
嬉しいのだ。
唐突過ぎるが湯沢さんにプロポーズされたことが……。もちろん兄からのプロポーズと比較することはできないが……。
「お待ちどうさま」
どんな表情を取り繕えば良いのかわからず、自分ではいつもと同じと思われる顔をして湯沢さんの待つ居間のテーブルへ向かう。二人分の茶を乗せた盆を置く。
「いきなりでゴメン」
開口一番、湯沢さんがわたしに謝る。
「まだ少し時間があるけど海外留学が決まったんだ」
「それは、おめでとうございます」
湯沢さんは大学で助教をしている。大学院で博士課程を修了する前から助教の職が決まっている。学部にもよるが日本で一二を争う国立大学の助教だから、わたしには想像できないくらい頭が良い。そんな湯沢さんが何故わたしを……。わたしの疑問が堂々巡りをする。
「唯ちゃんに、おれと一緒にアメリカに渡って欲しいんだ」
「湯沢さんの留学先はアメリカなのですね」
「カリフォルニア大学のバークレー校というところだ」
「わたしはアメリカの大学に詳しくありません。ですが、きっと凄いところなのでしょうね」
「九月からの留学予定だ。だからあと三月ある。考えてくれないか」
「湯沢さんのお言葉はとても嬉しいのですけど、どうしてわたしですか」
「唯ちゃんの気持ちは理解しているよ。きみが、そのう……彼を愛し続けていることはわかっている。だから、おれはその愛を妨げるつもりはない。結婚してからだって、ずっと……」
「そんなことができるのでしょうか」
「時々嫉妬に狂うにしても、おれはきみに約束するよ。それだけは破らないと……」
「そう仰っていただけるとありがたいのですが……」
「きみに脈がないことは百も承知している。きみから見れば、おれは単なるお兄さんの友だちだろう。それはわかっている。でも、きみたちの愛は成就できない。それも紛れもない事実だ。こんなことを口にするのは本意ではないが、常識的に考えれば、結論は一つしかない」
「わかっています」
「近くの地にいては、きみたち二人とも辛いだろう。だから思い切って離れてみてはどうだろうか。結婚した後でもきみを抱くな、というなら、おれはそれを守る、きみを綺麗なまま愛し続ける」
「湯沢さん……」
「最終的にダメでもいいよ。でも唯ちゃん、真剣に考えて欲しい」
「わたしには何とお答えして良いやら……」
仮にわたしが湯沢さんとの結婚を望んでも第一に母が許さないだろう。わたしは母が育てた兄の介護者だから……。だから愛している/愛していないを別にしても、わたしは兄の許を離れるわけにはいかない。この家を離れるわけにはいかないのだ。
……だというのに、どうしてわたしの胸は期待に膨らむのだろう。母に、兄に、この家のわたしに対する呪縛に、遂にわたしは気づいてしまったというのだろうか。それは、わたしが気付いてはならない感情。わたしが一瞬でも抱いてはならない想い。
兄のことは愛している。その感情には一点の曇りもない。が、わたしは目の前にいる兄の友人に間違いなく好意を感じている。それが結婚という男女の営みに繋がるものかどうか、男の身体を知らないわたしには、まるで見当がつかないが……。
わたしは唯ぼんやりと湯沢さんの顔を眺めることしかできない。新たに芽生えた自分の感情を持て余してしまう。だからだろうか。
「おう、湯沢、来てたのか」
予想していなかった兄の声を背後に聞き、わたしは冷や汗をかいてしまう。わたしの心は今、最愛の人を裏切ったのだ、と……。
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