17 惑
それから偏さんに連れられ、入ったのがシティーホテル。最上階ではないが、かなり上の部屋だ。
「こちらの方が奮発ね」
「うん。暫く贅沢ができないよ」
そう応える偏さんの表情には屈託がない。現実には、お金持ちのお坊ちゃまなのだ。
「偏さんのお母さまに合わす顔がないな」
「母はぼくたちの交際に期待していたよ」
「だったら残念なことをしたわね」
「でも、もう過ぎたこと……」
晴れていたので夜景がきれいだ。雨が降っていたら、せっかくのホテル代奮発も台無しだったか。
「景色とは直接関係ないよ」
「えっ」
思わず夜景に見惚れるわたしに、まるで心を覗いたかのように偏さんが言う。
「きみはぼくの夢に登場するお姫さま。夜景は、そんなきみのためのもの。ぼくには関係がない」
「わたし、言葉に性的な魅力があるって初めて知ったかも……」
「ならば、存分に堪能すれば好い」
「そうするわ」
高層の部屋なので窓は一部しか開かないが、それでも興味本位で開けると物凄い風。部屋の中が嵐になる。
「わたしの心の中と同じ……」
「ぼくの台詞を奪われたな」
予感と期待と、それに怖さが綯交ぜになった気持ちで偏さんを待つ。そこにパーフェクト・タイミングで偏さんが背に寄り添う。
「きみが欲しい」
「わたしも……」
「尚子さんが欲しい」
「わたしも偏さんが欲しい」
わたしは言うが、最後の方は言葉が掠れている。
「あっ」
偏さんがわたしの身体を抱き締める。力は強くないが、想いが強い。それを感じるから息苦しい。
「ああ……」
「尚子さんが好きだ」
「わたしも偏さんが好き」
「今まで知らないきみの部分をすべて味あわせてもらうよ」
甘い声で偏さんが囁いたかと思うと、わたしの唇を王子様のように奪う。中学の昔にしたような、またその後も同様だったような軽いキスではない。濃厚なキス。偏さんがわたしを味わっているのだと、わたしに直接感じられるような……。
「あああ……」
漏れた言葉は、それが最後……。後は言葉にならない言葉が続く。偏さんがわたしの口中を旅している。前歯の裏が、右頬が、口蓋が、こんなに震えるなんて信じられない。わたしの腰が一気に抜ける。それを支え切れずに偏さんが僅かによろめく。その辺りは少しガッカリだが、それ以前の夢見心地がわたしの心を朦朧とさせる。
「シャワーを浴びに行かせて」
わたしのよろめきのせいで二つに分かれてしまった一方の唇でわたしが言う。
「ぼくは、そのままの尚子さんが欲しい」
「今日はイヤ」
「わかった。ではシャワーを浴びに行って」
そう囁きつつ、偏さんがわたしの身体を開放する。
「うん、ありがとう」
わたしは猟師に猶予を与えられた小鹿のように偏さんの許を離れる。
「ふう」
バスルームに入ると、わたしに落ち着きが戻ってくる。が、同時に自分の花弁がぐっしょりと濡れていることにも気づかされる。そのときに感じたのは夢見心地ではなく驚くような怖さ。自分がこの先毀れてしまうのではないかという確固とした怖さだ。漠然とした不安とは違う。もっと明確で恐ろしい。今になって初めて、わたしは自分がこれまでずっと偏さんを愛していたのだと悟る。仲が上手くいかなくなり、心が毀れそうになったのも、わたしが偏さんを愛すればこそか。けれども残念ながら現実では、わたしの初めての男は偏さんではない。この先すぐ、まるで初めて経験するかのように、わたしが偏さんに抱かれるとしても……。わたしの身体が厭々をするかのように、そう感じている。これまでのわたしの性体験が幻であったかのように感じさせる。
偏さんと別れた後、わたしは五人の男に身を任せている。彼らとのセックスの気持ち良さは、それぞれだ。が、それとは別に、わたしは会社の上司を愛し始めてしまったようだ。そして同じタイミングで、わたしは偏さんと再会する。特に美人でも可愛くもないわたしが二人の男に想いを馳せる。入江(いりえ)課長は間違いなくわたしのことを愛しているだろう。恋愛素人なわたしにだって、それくらいのことはわかる。が、入江課長は決して家庭を捨てないだろう。会社の旅行で見かけた綺麗な奥さんと可愛い娘さんの許を離れないはず。が、わたしを愛しているのも真実。
ああ、わたしは今、いったい何を考えているのだろう。大切で二度とない初恋の男との逢瀬の最中に……。
わたしは偏さんが大好きだ。わたしは偏さんを愛している。けれども同時に、わたしは入江課長のことも愛している。
女という名の存在は二人の男を同時に愛せるものなのだろうか。それとも、それはわたしだけに起こった逸脱なのか。
たかがキスをされたくらいで秘所から愛液を溢れさせるほど好きな男とこれからセックスをしようとするそのときに他の男のことを思い浮かべるなんて……。ああ、わたしはどうかしている。
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