35 疑

 唯さんがおれを愛しているかどうかわからない。が、おそらく愛していないだろう。そう思えて仕方がない。けれども懸命に良妻を務めてくれる。家はいつも清潔で料理も旨い。夜になれば床上手だ。最初はそんな言葉を知らなかったが、知ればその通りだと納得する。おれには出来過ぎた妻なのだろう。少なくとも、おれの妻になってから妻の行動に疑念はない。百パーセント信じられる妻に違いない。が、それ以前、過去については疑念が残る。おれの中で晴れない疑念が……。唯さんの初めての男がおれではない……のではないか、という疑念。それが、おれの頭から離れない。確かに唯さんとの初めての夜、唯さんは行為を痛がり、血を流す。流れた血それ自体に嘘はないだろう。同時に苦しみ悶えた唯さんの姿も……。が、どちらも嘘かもしれないのだ。調べてみれば処女膜の再生手術は可能だし、大半の女は閨で演技をするという。唯さんが嘘を吐いているのかどうか、おれにはまったくわからない。唯さんの股間から流れ出た血がシーツを赤く染めたとき、おれは、あっ、と驚く。話には聞いていたが、初めての経験だったからだ。あのときは、その後の唯さんの表情などを見、すべてを信じる。が、後に疑いが鎌首を擡げる。調べてみると処女の女が破瓜の後すぐに床上手になる例は少ないようだ。もちろん相手の男が上手ければ、また別だろう。けれども、おれの場合、行為が上手いはずがない。女を抱くのが初めてのおれに行為が上手いはずがないのだ。けれども極上の快楽を最初の夜から唯さんはおれに与える。そのこと自体は喜ばしいのだ。女に溺れるとはこういうことかと感じつつ、連日、おれは唯さんを求める。そんな、おれの願いに一度として首を横に振らなかった唯さん。唯さんは、夫を立てる妻なのだ。夫に決して逆らわない貞淑な、夜には娼婦のように奔放な妻。けれども性に対する経験が浅いおれにせよ、行為に慣れればわかることがある。すると疑念が湧き上がる。唯さんは床上手過ぎるのではないか。厭でも、そうと疑ってしまう。自分が未経験者だったこともあり、おれは閨の話を他人としたことがない。けれども経験者になれば他人の行為が気になってくる。酒の席で聞いた話の半分以上は冗談だろう。多くの嘘も混じっている。が、処女と童貞で愉しく愛し合うことはできるにせよ、僅かの期間で妻が夫を極上の逝き心地にまで導くことが可能だろうか。一度気にすればいつまでも、おれの脳裡から消えない疑念。自分でも情けなく思うが、男のプライドは傷つき易い。それが事実か。もっとも現状が理想的なのだから、ええい、小さいことよ、と捨て置けば良い。けれども、おれにはそれができないのだ。なんと情けない男だろう。どれだけ小さな人間なのだ。仮に最初から唯さんが処女ではないと知っていれば話は変わる。おれが事実を受け止めるか、受け止められないか、ただそれだけのことに……。おそらく、おれは受け止められただろう。おれが唯さんを愛する気持ちが並大抵のものではなかったからだ。が、それが事後となると……。しかも本人からの申告がないとなれば……。もちろん今からでも、おれが唯さんに訊けば良いのだ。そうすれば唯さんは正直に事実を打ち明けるだろう。その結果、間違いなく処女であったことが証明される可能性は高い。が、もし、そうでなかったとしたら……。

 あの日、朝食時に前夜のフェラチオの話を持ち出したとき、唯さんが突然泣き叫ぶ。一言の弁解もなく、ただ泣き続ける。やがて、おれの出勤時間になっても唯さんは泣き止まない。だから、おれはその日一日を不安な気持ちで過ごしたのだ。もっとも家に帰れば普段と変わらぬ唯さんがいる。優しい笑顔で迎えてくれる。だから内心おれはホッとしたが……。

 あのとき以来、あの話が夫婦の会話に出たことがない。いつの間にか、なかったことにされている。もっとも当時、おれは現在のような疑念を抱いていない。何故ならば、おれが唯さんを信じ切っていたからだ。が、一度疑いを抱いてしまうと……。

 果たして唯さんの初めての相手は誰なのだ。おれは唯さんが偏を愛していたことを知っている。自分の兄である偏のことを……。が、唯さんの初めての相手が偏とは、おれには到底思えない。偏の友人を長く続けたおれの目に狂いはないと思う。……とすれば誰か。学校や買出し以外、殆ど家から出る機会を与えられなかった唯さんだ。男と出会う機会があったとは思えない。が、事実、唯さんは床上手。だから過去に過ちがあり、その相手のセックスが上手かったのだろう推察できる。もしそうでなければ、処女の女が床上手になどなれるものか。それともそれは女を知らないおれの邪推で、どんな女も――例えば女親から――閨における正しい振舞いを教わるのだろうか。おれにはわからない。わかるはずがないのだ。

「どうしたの、そんな難しい顔をして……」

 まだコトを初めていないベッドの上で裸の肌が存在感を増す。黒縁眼鏡を外したディスティニー・ホーンの身体がおれを待つ。正真正銘、処女だった彼女の顔が妖しく煌めきながら……。

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