2 秘

 わたしが所謂普通の子供だったら家出をしていたかもしれない。いや、それ以前に母を憎み、暴力を振るっていたかもしれない。が、事実、わたしは母を憎みもせず、暴力も振るわず、家出もしない。わたしには、そんな自分の感情が自分でまったく理解できない。例えば人に問えば、生まれた時からの母の洗脳の結果、という答が返るだろうか。ある意味それは正しいと思えるが、わたし自身は受け入れられない。母に叱られるのは辛いが、わたしは好きで兄の世話を焼いているからだ。母が兄を生んでくれて本当に嬉しいとも感じている。……ということは、わたしが母を憎まないのは兄がいるから、と帰結されるのだろうか。もしそうであれば、わたしは初めて己の心を知ったことになる。

 そう、確かに、わたしは兄を愛している。子供の頃から兄を愛し続けている。

 わたしの兄は誰にでも優しく、分け隔てがない。足腰が弱いので動きは常人に劣るが、それを覆すような明るさがある。兄のそういった人格的なモノは子供心にも通じたようで、病弱で学校を休みがちではあったが、クラスの誰からも虐められない。子供は残酷な生物だから弱い者虐めが大好きだというのに……。あるいは、わたしが知らないところで兄は虐められていたのだろうか。そう考えると不安になる。当然、兄は態度に示さない。だから、わたしには見抜けない。もしかして、そういう真相だったのだろうか。わたしは子供の頃の兄の身体に病気以外の傷を見たことがないが……。

 例えば、虫刺されなどが原因で兄が皮膚炎に罹れば皮膚が醜く腫れ上がる。が、それは虐めの打撲痕とは異なるだろう。いや、それさえも虐める側の巧妙な手口で、わたしには皮膚炎にしか見えなかった兄のあの傷跡は実は虐めの証だったのだろうか。そういえばある時期、兄は皮膚炎を繰り返したことがある。兄はすべての病気と親和性があるので短い期間に皮膚炎を繰り返しても不思議はないが、もしかしらたあの時期、兄に対する虐めがあったのかもしれない。けれども、わたしは気づけない。仮にそんな事実があったとしたら、わたしは兄の介護者失格だ。本当に、もしそんな事実があったのだとすれば……。

 が、わたしはそんな事実はなかったと思いたい。兄の人格の周囲への感化作用を信じるのはもちろんだが、兄に虐めの事実があれば、母が気づかないはずがないからだ。けれどもわたしの知る限り、母が兄の虐めを気にしたことは一度もない。が、それさえも無能なわたしに母が事実を告げなかったということでしかないのかもしれない。もし、それが事実なら、わたしは母にとって本当に唯の駒だということになる。母亡き後、兄のすべてを守るための駒。母にとって、わたしはそのためだけの存在だ。

 が、兄にとっては違うだろう。ここ数年、わたしは兄のことを家族以上に愛し始める。困ったことに兄を男性として認識してしまってたようなのだ。わたしが兄を想うそんな自分の心に気づいたのは最近だが、兄の方はずっと前から気づいていたらしい。けれども当時、そんな態度はおくびにも出さず、いつものようにわたしと接する。だから、わたしは自分だけが辛い想いをしていると感じながら数年間を過ごす。実は兄もわたしと同じ気持ちであると知らなければ、わたしは未だに自分だけが辛い想いをしていると感じながら毎日を過ごしているはずだ。が、実は兄の方もわたしを愛していた、とわかる。その事実を知り、わたしの想いがぐるりと周る。また違う、辛い想いへと変化する。

 兄がわたしのことを愛している、という事実を、わたしは兄の友人から知らされる。子供の頃から兄と仲の良い湯沢さんは疾うの昔に兄の心を見抜いていたようだ。だから機会を作り、わたしに関する兄の悩みを聞き、兄には内緒でわたしに事実を知らせたのだ。わたしに対する気遣いがあったかもしれない。兄妹互いに事実を知り、心の奥底に大切に仕舞え、というような……。

 そんな湯沢さんの誤算は兄がそのことに気づいてしまったこと。おそらく、わたしの態度の変化から知ったのだろう。知れば事実を確認したくなるのが人の心。勇気を振り絞り、兄がわたしの気持ちを尋ねる。わたしは顔を真っ赤にしながら自分の想いを兄に伝える。あのときは、ああ、もうこれで、わたしたちの恋は終わったのだ、と想いながら……。お互いに恋人を見つけて幸せになろう。兄が次にはそう言うだろうと疑わない。けれども兄は意外な言葉をわたしに告げる。

「互いに知らなければ想いはやがて消えただろう。だが知ってしまえば、それは強くなる一方だ」

 それに続けて、

「母が亡くなったら結婚しよう」

 と言った兄の言葉に唯驚くだけのわたし。

「兄妹だから本当の結婚はできないし、友人の誰に話すこともできないが、結婚しよう」

 と兄が続ける。

 わたしの目に嬉し涙が溢れ始める。兄の目を見ると同じように涙が溢れている。わたしは後先の心配をしながらも兄の真摯なプロポーズを受け入れる。わたしと兄二人の目に更に涙が溢れかえる。

 母には絶対の秘密だ。

 この世の誰よりも兄を愛する母が、わたしと兄の結婚を赦すはずがない。世間的な話ではなく女の本能で……。母が兄と性的関係にあろうはずもないが、母の想いは恋人的だろうとわたしは思う。その事実が、わたしには恐ろしい。

「唯のことは今すぐにも抱きしめたい。だが、身体の関係は我慢しよう。それが、お互いのためだから」

 そう言う兄の言葉に、わたしは黙って首肯くしかない。

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