相姦図

り(PN)

第一章 1 告

 母は兄を愛している。兄のことだけを愛している。母がそのことをわたしに宣言したのは、わたしが小学校に上がってから。が、そのとき、わたしは既に知っている。母が兄だけを愛しているということを……。だから、わたしは遂にそれが正式になった、と思っただけ。母はそのときまで、わたしを苛めはしないが、可愛がってもいない。単に自分に必要な駒だ、と考えていたのだろう。

 兄は身体が弱い。先天的に健康に恵まれていない。母も身体が弱い。だから兄の病弱は母譲りだろう。わたしと兄の父親は、もうこの世にいないが、頑丈な人だったと母方の叔母から聞いている。不幸な事故に遭わなければ父は長生きしたかもしれない。けれども死ぬ運命と決まっていたか。父には可哀想だが、それが運命ならば、変えることはできない。

 兄が先天的に病弱だと知り、自分も病弱な母は、わたしを生む決心をする。兄が四歳になったときだ。自分が他界した後、兄の世話を焼かせるために……。そのためだけに母はわたしを生み、育てる。だから、わたしの子供時代は地獄絵図。親に愛されない子供は、この世にはいくらでもいるし、親に虐待される子供や、更には親に殺される子供までいる。

 単に邪魔だ、という理由のみで……。

 その点、わたしは母に殺されずに育ったのだから幸運だろう。そう思うしかない。

 母がわたしを殺さなかったのは、わたしが母に必要だったから。例えば科学の進歩で兄の病弱が克服されたら母はわたしを殺すかもしれない。いや、それは単に親に愛されなかった子供の願望か。実際は母がわたしを無視し、いずれ家から追い出すだろう。溺愛する息子と水入らずで暮らすために……。

 そんな母は高名な作家。作家の前はピアニストだが、わたしの兄と離れて暮らすのが厭で演奏公演を止める。母のピアノにはパトロンがあったから、数人のパトロンのため、自宅で演奏会をすることまでは止めていない。

 その後の生計は、それまでに稼いだお金の資産運用で行う。バブルの時代ならば失敗して無一文になる可能性もあったが、母は上手く乗り切ってしまう。が、それは母の才能というより、母が資産運用を任せた父方の叔父の才能だろう。

 わたしが自分の母に関し素直に驚くのは第二の才能があったことだ。ピアニスト時代も雑誌の編集者に頼まれ、時折エッセイを書いていたようだが、まさかその縁で作家デビューを果たすとは……。母には世界を巡ったピアニストとしての知名度があったから、小説を発表すれば、おそらく一作目は売れるだろう。が、才能がなければ、その先はない。けれども、わたしの母はそのハードルをいとも容易く飛び越える。三作目にして名のある賞を獲り、一流作家の仲間入り。最初の頃はピアニスト時代の体験を生かし、豪華なストーリィが多かったが、冊数を重ねるうちに方向性が変わる。豪華な部分はそのままに基本ストーリィに庶民感情を絶妙にブレンド。多くの人間が愉しめる仕様に変える。

 残念ながら出版する本すべてがベストセラーになることはないが、殆どの小説でスマッシュヒットを続けている。時代の流れを考えれば凄いこと。わたしは素直にそう感じる。

 わたしが指摘するまでもないが、母の小説は小説として良くできている。わたしには自分の母が書いたものだと信じることができないが……。例えば、ある登場人物が不幸な別の登場人物に向ける優しい眼差しが信じられない。わたしが母から冷ややかな眼差ししか送られたことがないからだろうか。わたしに対し、あれほど冷ややかな眼差しを向け続けることを意に介さない母に、そんな感情表現ができることがわたしには謎。わたし以外の人間にとって母は素敵な人間なのかもしれない。もしもそうであるなら、母が自分の書いた小説で優しい感情を表現できるのは当然だろう。

 わたしだけが例外。わたしだけが愛されない。

 ところで母は所謂流行作家とは違うので多作ではない。それでも毎日必ず一定量を書くから出版した本はそれなりの冊数を数える。海外の作家と比較すれば多作といえるだろう。その上、書く話の内容が頭の中にいくらでも思い浮かぶようで、わたしが見る限り、母が小説の執筆に行き詰ったことは一度もない。母にとってはあるのかもしれないが、実の娘とはいえ、わたしには母の心の中まで覗けない。いや、母親に少しでも愛された娘ならば覗くことができるのかもしれないが……。

 わたしが十四歳を過ぎる頃、母の身体に異変が起こる。父が不幸な事故で亡くなってからも十四年後。特定の病気になったというわけではなく、身体全体がゆっくりと衰弱し始める。その頃から、母のわたしに対する態度がきつくなる。五才年の離れた兄の世話を、わたしが僅かでもミスすると激しい叱責の言葉が飛ぶ。誰の遺伝子を継いだのか、わたしは先天的に要領が悪い。だからミスも多いが、そういう性格というものは治そうと思って治るものではない。だから、わたしは常に最善を尽くす。いつだって最善を尽くすしかないではないか。何故なら、ただの一度で良いから、わたしは母に褒められてみたいから……。母に、唯(ゆい)は良い子だ、と言って抱き絞めてもらいたいから……。母はわたしを愛していないが、どうやらわたしの方は母を愛しているらしい。一方通行の愛。

 毎日の努力の甲斐もあり、わたしのミスは、やがてそれなりに減る。が、決してゼロにはならない。母がわたしに望むのは完璧な兄の介護者だ。わたしは十四歳のあのときから二十二歳になる現在まで毎日、母の叱責の言葉を聞き続け、過ごしている。

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