6 忘
(あの夜のことを、どうしてぼくは忘れていたのだろうか)
ぼくの脳裡に、ふとそんな思いが過る。
(それは、お母さんが忘れなさいって言ったからよ)
母の顔を見ると母が無言でぼくに語る。
(あなたが自分一人で、ちゃんとできたのだと思えるように……)
それに続け、首を傾げながら、こんなふうに言う。
(でも本当に忘れちゃうなんて、偏(ひとえ)は、とても素直なのね)
あの夜、爆発したぼくのペニスから飛び出した精液がベッドシーツを汚す。せっかく母がティッシュボックスを用意してくれたというのに……。もっとも、その点では母もうっかりしていたのだろう。あの状態でぼくがうっかりすることを見過ごしたのだから……。
あの夜、母はぼくのマスターベーション成功を確認すると、すぐに無言で部屋から去る。
……とぼくは記憶していたが、実際は違ったようだ。
(恥ずかしいと思ったら、また忘れればいいわ)
僅かに愁いを帯びた母の目が、ぼくのすぐ近くで、ぼくに語る。
(これから、あなたに起こること、すべても纏めて……)
(でも、忘れたくないかもしれない)
(それなら憶えていればいいわ)
(ねえ、お母さんはぼくのことが好き)
(あなたのことは愛しているわ)
(でも、ぼくはお母さんとは結婚できない)
(お母さんだって、そんなことは望んでいないわよ)
(だって……)
(今夜のことだって、あなたに自信をつけさせてあげたいだけ。偏は女の子とセックスするのが怖いんでしょ。お母さんは木村さんに期待していたのよ。ずいぶん長く、あなたとお付き合いしてくださったから……。でも、あなたの方がそれを台無しにしてしまった)
(彼女には悪いことをしたと思っているよ)
(まあ、キスができたのだから、第一ステップは良しとしましょうか)
(まさか、あれもお母さんが……)
(違うわよ。あれは、あなたたち二人の成果)
(お母さんはぼくたち二人のことを応援してくれていたんだね)
(単に見守っていただけよ。だから、今更あなたにセックスを教えに来たんだわ)
(お母さんは、ぼくのことを出来損ないだと思ってる)
(あなたの身体に関しては、お母さんの方に引け目があるの。お母さんが丈夫な人間だったら、あなただって普通の人として暮らせたでしょうに……)
(そんなことを言ったら、お母さんは身体が弱いのに自分の人生をちゃんと切り盛りしているじゃないか。それに比べて、ぼくは……)
(人には早い遅いがあるから、そんなことは気にしなくていいのよ。今はまだ、あなたは自分の進むべき道がわかっていないだけ)
(ぼくに進むべき道なんてあるのかしら)
(その質問に、お母さんには教えられない。偏が自分で見つけるものだから……)
(ぼくには見つけることができるかな)
(それもお母さんにはわからない。でも、きっと見つけられると信じているわ)
(ありがとう、お母さん)
(だけど、そのためには自分に自信がないと駄目ね。セックスもそう。お母さんが知っていることは全部あなたに教えてあげる。だから、あなたはお母さんを利用すれば良い)
(お母さんを利用だなんて……)
(だってお母さん、この先きっとそんなに長く生きられないもの。あと十年もしないうちに死んでしまうもの)
(そんな……)
(だから今のうちに利用するのよ。お母さんが生きているうちに……。さあ、始めましょう)
母が無言でそう口を動かし、行為が再開。……といっても、これまでの行為は、ぼくがペニスを爆発させただけだ。セックスは一つも始まっていない。
世間的には異常な無言の会話をした後で母とセックスができるのか、とぼくがほとほと惑ってしまう。が、最前爆発したぼくのペニスが気づけば硬さを取り戻している。ぼくは自分の母親を愛しているのだろうか。それとも相手が女なら誰でも良い、動物みたいな人間なのだろうか。けれども、ぼくが思い悩む前に母がぼくの唇を奪う。今宵、二度目のディープキスだ。母がぼくの口中を味わい始める。歯の裏、頬の部分、顎の上下、舌先、舌許。ぼくも同じように母の口中を味わう。誰一人まだ知らない母の秘密の部分を探す。口内の上の部分に傷がある。確か、硬口蓋と呼ばれる部位だ。熱いお茶かスープでも飲んで皮が剥がれたのだろうか。それとも口内炎か。ついで探った奥歯の一部が欠けている。そういえば母が昼間に歯医者に行く予定があると言っていたが、ここなのか。
そんなふうに不器用だが、ぼくが母の口中を散策。母が教えてくれたディープキスの意味を噛み締めながら……。それは自分が知らず、相手もまた知らない相手の部分を発見し、驚き、愉しむための行為。母も、ぼくの口中にぼくの知らない秘密を見つけて愉しんでいる。そう信じたい。
最後はお互いの唾液に塗れ、ぼくと母が唇を離す。その際、少し間をおき、改めて母の裸体を見ると美しい。病弱なので健康的とは言えないし、肌の色も悪いが、腰から尻にかけてのラインが素晴らしい。ぼくには、まるで宝物に思える。そんな美しい母の身体を、ぼくは上手に抱けるのだろうか。自分の母ではなく一人の女として、ぼくは快楽を与えることができるのだろうか。
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