19 無

 兄は昔の恋人と撚りを戻したようだ。わたしには言わないが態度でわかる。兄にとっては、その方が幸せだろう。おそらく、わたしにとっても幸せなのだ。

 あのとき兄がわたしに告げたプロポーズの言葉に嘘はないと思う。が、無理なものは無理なのだ。実の兄妹が結婚をするなんて……。肉体を混じり合わせ、愛を育むだなんて……。

 そんなことはわかっている。あの夜から、わたしは理解している。けれども、やはりわたしは悔しいのだ。兄との結婚が夢のように消えたことが……。

 が、兄が幸せになれば、それがわたしの幸せ。そのことだけが確実なこと。だから、わたしは祝福しなければならない。大好きな兄に暗い顔を見せるわけにはいかないのだ。

 今思えば、あの夜、わたしも兄もどうかしていたのだ。ついで半月ほど経ち、兄がわたしのベッドに潜り込んで来た夜も……。わたしは泣きながら兄の接近を拒絶する。もちろん、それで正解なのだ。もしもあのとき兄と関係を持っていたら、と考えると恐ろしい。そもそも兄の方から、いくら恋しくても身体の関係は我慢しよう、と持ちかけたのに……。その秘密の約束を兄の方から破ろうとは……。詳しい事情は知らないが、あの頃、兄の気持ちを毀すような何かがあったのだろうか。

 わたしが気づいた限りでは、その半年程前に兄の性格が一変する。子供の頃から病弱で、それでも気丈に生き続けた兄が歳を経るに従い、徐々に自分に対する自信を失っていくのを目の当たりに見るしかなかったわたし。その兄に子供の頃のような自信が戻ったのだ。が、あっという間に兄が自信に満ち溢れていたわけではない。徐々にといった感じで耀き始める。傷跡の多い自分の貧弱な肉体にも、もう引け目を感じなくなったようだ。果たして、きっかけは……。

 悲しいことだが今のわたしには、それが女だとわかる。おそらく兄を抱いた女がいたのだ。最初に兄の相手をしたその女が持っていた素晴らしい性格が兄に自信を植え付けたのだ。兄は身体の成長が人より遅いから、生まれて四半世紀を過ぎた今、やっと思春期を過ぎ、幸運な出会いを迎えたのかもしれない。結局、わたしとの結婚なんて子供の約束に過ぎなかったのだろう。それこそ思春期で拗れた子供の……。

 肉体が幼な過ぎ、子供の頃から好き合っていた恋人とさえ別れた兄だ。当時、兄には泣き言を漏らせる女がわたししかいなかったのかもしれない。そう思い、諦めるしかないだろう。わたしから見ても尚子さんは良い人だ。彼女が兄と別れたことを知ったとき、わたしは少なからずショックを受ける。けれども尚子さんが兄と撚りを戻したと知ったときのわたしのショックの方が数倍も大きい。

 尚子さんと兄が付き合い始めたとき、わたしは小学校五年生。兄のことは好きだったが、当然、男として愛していたわけではない。かけがえのない家族の一人として愛していたに過ぎない。だから兄が尚子さんをわたしに紹介したとき、わたしは将来この人が兄のお嫁さんになるのだろうかとワクワクしたものだ。尚子さんは運動ができて、筋肉質の脚が素敵で、しかし何よりも笑顔が綺麗なお姉さん。そんな尚子さんの笑顔が消え始めたのは兄と尚子さんが共に高校三年生の頃か。実はもう少し早かったのかもしれないが、わたしが気づいたのが、その頃だ。尚子さんは家に良く遊びに来たから何度も会話をしたことがある。話の内容自体は子供っぽいものだったが、兄との心の溝が深くなったことを寂しがっていたように、わたしは受け止める。今のわたしなら、その溝の一つが二人の肉体的な関係にあったとわかる。当時の兄の性格を考えると尚子さんの方から誘えば上手くいったかもしれない。が、過去は変えられないのだ。おそらく子供のような唇を軽く触れさせるキスを交わしただけで当時二人は別れたのだろう。もっともそんな可愛いキスさえ、わたしは知らずに今日まで生きてしまったのだが……。

 池ノ上先生のレッスンで既に性の喜びを覚えてしまったわたしだ。だから可愛いキスを味わう機会は金輪際ないだろう。しかも目出度く尚子さんが兄のお嫁さんになれば、わたしの性の出番もなくなってしまう。わたしが池ノ内守恭先生から受けた性のレッスンを生かす場自体が……。

 ……とはいえ、わたしはまだ池ノ内先生から技のすべてを学んだわけではない。高齢のせいか、池ノ内先生の性のレッスンはスローテンポだ。若い人にありがちな、せっかち感がない。逆に、わたしの身体の方がムズムズしてしまう。が、わたしは性に飢えているわけではない。身体を通じた男女の機微というものに興味を覚え始めただけだ。もちろん、そんなふうに感じるようになってしまった自分自身を呪うこともある。が、慣れの力とは恐ろしいもの……。今では池ノ内先生がわたしにすべてを教える前に他界されないことを願っているのだ。当然わたしは池ノ内先生を愛していないし、また性のテクニックに溺れているわけでもないというのに……。

 しかし……。

 尚子さんが兄の介護まで引き受けるようになれば、わたしがこの世に生まれた存在価値がゼロになってしまう。尚子さんが兄とわたしと母の家にお嫁さんに来れば、わたしの居場所はなくなってしまう。二人の間に子供でもできたら増々そうなるだろう。が、わたしには家を出ても行く先がない。家の主であるわたしの母に、いずれ追い出されるにしても……。

 母は兄と尚子さんとのことをどこまで見抜いているのだろうか。兄と尚子さんの復縁をそれとなくわたしに報せたのは兄の親友の湯沢さんだが、湯沢さんが母に告げる可能性は……。

 が、湯沢さんは母にあることを告げたのだ。後日母からそれを聞き、わたしは少なからずショックを受ける。

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