20 束

「唯さん、お話があります」

 母に呼ばれ、母の書斎にわたしが出向く。つい先程まで次回の読み切り小説の打ち合わせをしていたはずの雑誌編集者、村田さんの姿はない。

「村上様は、もうお帰りですか」

「ええ、話が逸れてきたのでお引き取りいただきました」

乾いた声で母がわたしに告げる。

「ところで唯さん、あなた湯沢さんにプロポーズをされたようね」

「ええ、あの……」

 わたしには正しい返答がわからない

「それに、お返事をしていないそうですね。湯沢さんが、わたしのところに頼みにいらっしゃいましたよ」

「そうですか」

「昨日のことです」

「しかし湯沢様はとてもご教養がおありになり、到底わたしなどが釣り合う相手ではないと……」

「それで、お返事をしなかったのですか」

「あの、お母さま……」

「お話があったことを母にも告げずに、唯さんはどういうおつもりなのかしら」

「それは、その……」

「唯さんは湯沢さんと結婚なさい。あなたのような女は求められるのが幸せです」

「ですが、お母さま、そう致しますとお兄さまの介護は……」

「鈴木尚子さんにお願いいたします。それに尚子さんがこの家にいれば、プロの介護人を何人でも雇えますし……」

「鈴木尚子さまが兄さまの介護を……」

「偏さんの元恋人だった方ですよ。唯さんもご存知でしょう」

「はい、良く存じております」

「一時期、お付き合いが上手くいっていなかったようですが、最近、仲が修復しました。尚子さんは子供の頃から偏さんのことを知っていますから、その点でも、偏さんを任せて安心です。過去に一度別れたことにはそれなりの理由があったのでしょう。ですが、こうしてまたお付き合いを始めてくださったからには尚子さんの方にも相当の覚悟があったと思えます」

「それはわかりますが……」

「唯さんは偏さんの結婚相手が鈴木尚子さんでは不満ですか。他に誰か良い相手を存じていますか」

「いえ。それは……」

「今となっては、わたしの判断ミスを認めなければなりませんが、唯さん、あなたは大人の性を覚えてしまいました。尚子さんをこの家に迎えたとき、唯さんがこの家にいては心配なのです」

「それは、わたしが兄のことを襲う……とでも仰るのですか。いくらお母さまでも、それでは、あんまりな……」

「唯さん、あなたではありませんよ。そのことはわたしも十分承知しています。けれども、あなたの身体は自身の近くにいる男を虜にしたくて仕方がないように改造されたのです。そういった反応を見せる女の身体に変わってしまったのです。だから唯さん、あなたの、そして偏の母として、わたしは兄妹の危機を未然に防がなければなりません」

「……」

「湯沢さんは朴訥ですが、良いお人です。おそらく女の経験も少ないでしょう。だから唯さん、あなたが夜に娼婦でも、それが怪しいと気づくことはないでしょう。夜には女が皆、そうなるのだと思うでしょうから」

「ですが、お母さま……」


を出ていかなければならないのですよ。今ならば、あなたに、それ相応のモノを持たせることもできるでしょう。ですが数年後、わたしが死んだ後になると……」

「考える余裕をいただけませんか」

「唯さん、あなたに選択の余地はないのです」

「池ノ上先生からのレッスンも、まだ終わってはおりません」

「そんなレッスンなど、もうあなたに必要ないでしょう」

「けれども……」

「唯さんが、ここまでわたしに歯向かうなんて考えてみれば初めてのことね」

「済みません、お母さま」

「湯沢さんが渡米するのは三月先です。池ノ上先生には、それまでにレッスンを完了していただきなさい」

「お母さま……」

「それ以上の譲歩はできません。湯沢さんとの結婚がどうしても厭だというなら、そのときまでに判断をなさい。唯さんがこの家を出る時期は変わりませんが、その場合は独りで出て行きなさい。就職を望むならば、最初の就職先は母が探します。隠遁したいのならば家を与えましょう。残念ながら、わたしは有名人です。ですから家族といえども下種な雑誌記者に狙われる可能性が常にあります。わたしの目が黒いうちは、そんな事態は起させませんが、死ねばそうもいかないでしょう。残念ながら偏さんにはわたしの遣り方を継ぐことはできません。ですから陰からこの家を守ってくださる先生方がいなくなれば、この家はまるで無防備になります。もっとも、わたしが死ねば下種な記者の探り処もなくなるわけですが……」

「お母さま……」

「唯さんには、まだお話していませんでしたが、偏さんと尚子さんの結婚は既に決まっています。時期的には、湯沢さんの渡米と重なります。よって猶予はないのですよ、唯さん」

「お母さま。仮にわたしが湯沢様と結婚して、この家を出たとして、わたしは幸せに暮らせるのでしょうか」

「わたしの見る限る湯沢さんは唯さんをとても愛しています。わたしには羨ましいほどに……。それだけは間違いありません。もちろん、だからと言って、それだけで人が幸せになれるとは限りません。ですが不幸になるのはそれよりずっと簡単なのです」

「お母さま……」

「唯さん、後はあなた自身で考えなさい。少し興奮して話したせいか、母は気分が悪くなりました。唯さん、すぐに、降旗(ふりはた)さんを呼んでください」

「お母さま、大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫ですよ、わたしは……。今、わたしは死にません。偏さんの晴れ姿を見るまでは……」

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