21 報

「そうか、唯さんは湯沢くんとの結婚を決めたか」

 わたしが自身の将来の予定を告げると池ノ上先生が残念そうに口を開く。性のレッスンが始まる前だ。

「それしか選択肢がないと母に言われました」

「沙苗さんなら、そう言うだろうな」

「求められるのが幸せだとも言われました」

「人によっては間違いではないよ。女でも男でも……」

「わたしの場合も、そうなのでしょうか」

「自分を殺すことに慣れればな」

「それは兄への想いを封じるという……」

「どの道、願わぬことだと覚悟をしたのだろう、唯さんは……。そうでなければ、このわしに結婚の報告をするはずがない」

「はい、自分なりには……ですが」

「偏が恋しいか」

「正直言って、わかりません。今の自分の気持ちが掴めません」

「ならば、そのままの気持ちを持っておれば良い。わしがどうこう言って治るものでもあるまい。恋は病だ」

「病ですか」

「そうだよ。だから罹っているときには盲目になる。だが冷めれば周りが見える。完全に治れば、もう気に病むこともない」

「そんなに簡単なことなのでしょうか」

「特に女人にとっては、そうだ。男はいつまでも未練を引き摺る。情けないが、わしでさえ」

「池ノ上先生でも……」

「そうだよ。最新のわしの未練は唯さん、あなただ。湯沢の小僧になんぞ、渡したくない。もちろん唯さんの相手が偏ならば我慢もしよう。だが湯沢くんでは……」

「ならば、わたしを攫って逃げてください」

「唯さんの、そういうところは沙苗さん似なんだな。昔のことだが、沙苗さんにも同じことを言われたよ」

「母からですか」

「あのときの沙苗さんには唯さんの影も形もないから、唯さんの母ではなく単に沙苗さんという存在なのだが、そんな大乗仏教を間違って解釈したような話はどうでも良いだろう。そうだよ、唯さんのお母さんからだ」

「そのとき先生は何とお答えに……」

「わしがあなたを連れて逃げれば、あなたのピアニストとしての将来はなくなる、と言ったさ。すると即座に、今の発言は忘れてください、と返しおった」

「そうでしたか」

「わしなど、沙苗さんにとってピアノ以下の存在だったのだろう。当然だな。それがわかっていたから、わしもそう言ったわけだが……」

「わたしにはピアノがありません」

「唯さんの身体は男を鳴らす楽器だよ」

「そうなのでしょうか」

「わしが保証する」

「しかし、それに何の意味が……」

「そうだな。難しいな」

「……」

「だが確かなことは、今のわしが唯さんを攫えば、わしが滅びるだろう、ということだ。唯さんの身体の虜になり……」

「でも先生はわたしの性のレッスンの先生ですよ」

「わしは唯さんの身体と心の中に既にあるものを引き出す手伝いをしているだけだ。その意味では、わしは先生ではない。単に唯さんよりも先に生まれ、多少の経験を積んで来たに過ぎない。その経験を元に唯さんの中に隠された宝を見極めようとする……」

「宝ですか」

「下世話な話で恐縮だが、唯さんは良いモノを持っておる。いわゆる数の子天井に近い。だが、そこまでの名器はないので自分で感じることもできる。唯さんの強みはそこかな」

「お話の意味がわかりません」

「性の一部は物理刺激だ。実際、男の性器は正しく刺激すれば大きくなり、刺激を続ければ精を放つ。周期的に発生する子供の虐めにもあるが、虐めの対象の男の子を裸にし、あるいは下半身を剥き出しにし、性器を刺激する。もちろん遣り方を間違えれば萎えたままだが、唯さんに教えたツボを押さえれば勃起する。一度勃起さえすれば、いずれ精子が放出される」

「陰湿な虐めですね」

「虐めとは本来、陰湿なものだよ。爽やかな虐めなど、あるはずもない」

「それは、そうでしょうが……」

「話が逸れたが、膣が名器の場合、男は挿入し、三こすり半で逝くという。『三こすり半』というのは本来、早漏を表す俗語だが、それくらい気持ち良く、男はすぐに逝ってしまうということだ」

「はい」

「だが、そうなると女は感じる暇がない。名器を持つ女で男のあしらいが上手くない者が多いのは、そのためだ。けれども女の方も感じることができれば、その刺激を大きくしたいと願うはず……というより、そう願うのが動物的な本能だろうか。けれども女が自分の快感を知らないとなると……」

「男の快感も理解できない」

「そういうことだ。子供の頃から全教科で勉強が得意な学生が、できない子供の家庭教師に向かないのと同じ理屈だな。できる者には『できない/わからない』ということがわからない」

「そういうことでしたか。先生の仰った意味が漸く理解できました」

「下世話な話で済まんな」

「いえ、それは構いません。ですが、これまでのレッスンを思い返してみますと、わたしは池ノ上先生を相手にしたとき、感じてはいますが、醒めています。もちろん先生の方も醒めていらっしゃるのでしょうが……」

「この歳の老人があれだけの精を放つのだよ。頭では醒めているつもりでも、わしの身体は唯さんの虜になっておる」

「でも、わたしを攫ってはくださらない」

「欲惚け老人として裏社会から抹殺されるのも悪くない生き方だが、わしには守るものが多過ぎる」

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