48 決

 今では尚子さんもいない家の中はガランとしている。兄は離婚依頼、塞ぎの虫に憑りつかれる。それでも発作を起こさないのは精神的に強くなったためだろう。兄につけ入るなら今だ、とわたしは知っている。わたしが泣きながら、お兄さまが好き、とでも言いながら迫れば兄は堕ちるだろう。まず肉体的に……。

 精神的にはどうだろうか。

 言葉は悪いが、兄はわたしへの愛を遠ざけるため尚子さんを利用した。尚子さんがそれにどこまで気づいていたか、わたしにはわからないが、何か感じるものがあったのだろう。そうでなければ不倫を続けたとは思えない。尚子さんは寂しかったのだ。兄はそれに気づいたから尚子さんを自分から解放したのだ。

 現在、この家にいるのはわたしと兄と保坂さんの三人。が、既に保坂さんは住み込みを辞め、自宅から通っている。わたしが、この家にいれば自分はいらない。メイドは最初から唯さん一人だ、とまで思ったかどうか。だから夜から朝まで、この家にはわたしと兄の二人しかいない。正確には警備員の丸元さんが住み込みでいるが、彼は影だ。池ノ上先生のまわし者かもしれないが、雇われた時期が微妙。もっとも子飼いでなくても丸元さんの知ることを池ノ上先生が知る方法はいくらでもある。

「お兄さま、ご飯ですよ」

 わたしが二階の兄の部屋を覗き、声をかける。兄はベッドではなく机で書き物をしている。当然、わたしの呼びかけには気づき、

「ああ、すぐ降りる」

 と返事をする。

「では待っています」

 そう言い、わたしは兄の部屋を辞す。

 すると種々の妄想がわたしに去来する。

「母が亡くなったら結婚しよう」

 あのとき兄がわたしに告げる。まだ純情だったわたしは兄の言葉に驚くだけだ。

「兄妹だから本当の結婚はできないし、友人の誰に話すこともできないが、結婚しよう」

 まさかと思うが兄が続ける。いつの間にか、わたしの目に嬉し涙が溢れ始める。兄の目を見ると同じように涙が溢れている。あのとき、わたしは後先の心配をしながらも兄の真摯なプロポーズを受け入れている。

 当時、わたしと兄の気持ちを絶対に知らせてはならなかった存在の母は今や植物人間。死んではいないが障害ではない。けれども、わたしには今の兄の心がわからない。世間体を気にしているのか、それとももうわたしを愛していないのか。

 尚子さんとの婚約が決まり、兄のわたしを見る目から生々しさが消える。完全にではないが一つの諦めとともに……。一方、わたしが兄を見る目は昔も今も変わっていない。自分の肉親であると同時に恋い焦がれた相手に向ける眼差しなのだ。

 性のレッスン期間を含め、愛のない身体だけの関係を何人もの男と持ったわたし。数は少ないが女とも関係している。その経験がわたしに与えたのは愛への幻滅ではなく、その反対の希求だったとは……。当たり前過ぎて笑ってしまう。笑えば次に悲しくなってしまう。

 わたしは兄に抱かれたいのではない。性の喜びもあれば嬉しいが精神的な愛はそれ以上なのだ。今ではそう信じている。が、もしそうだとすれば、わたしはあのとき既にそれを得ているではないか。兄の真摯なプロポーズを当惑しながらも受け入れたとき、わたしは兄から純愛を授かっている。

 当時何も知らない未通娘として、わたしは兄に抱かれることを夢見ている。学校の授業や盗み読んだ本から得た性の知識に胸を震わせ、秘所を熱くし、理想の恋人との恥ずかしい行為を夢見、朱くなる。理想の恋人とは当然兄で、兄との行為はわたしを天まで昇らせる。はしたないが、若い娘には不思議でもない空想だろう。今のわたしから見れば可愛らしい。あるいは、いじましいが、それは今のわたしから見ればのことで当時のわたしにとっては世界のすべて。

 わたしは今でも広い世界に住んでいるわけではない。が、あの頃はもっとずっと世界が狭かったのだ。……と同時に、兄の存在が大き過ぎる。わたしのすべてと等しいほどに……。

 いや、そうではないか。

 母に認められたいという気持ちが半分ある。伊阿彌、それ以上か。が、今、どちらも遠い。

遥かに遠い。あの頃からまだ三年も経っていないのに、まるで数十年の月日が流れたようだ。

「ごめん、遅くなった」

 兄の声が聞こえる。

「茶碗蒸しか、懐かしいな」

「何を作ればいいのかわからなくなってしまって……」

 それでテーブルの上をスモークサーモンとチーズのピンチョス、ズッキーニの前菜サラダ、野菜多めの生春巻き、筑前煮、海老真薯、ローストビーフなど犇めき合う。

「食べきれないな」

「数は多く作ってないけど余ったら丸元さんの夜食か、憲子さんの朝食にまわすから……」

「唯は働き者だな」

「だって他に何も出来ないから……」

「ぼくだけのために、この家にいては勿体ない」

「いずれ機会があれば再婚するわよ。お兄さまもね」

「そうだな」

 ワインにスペルバウンド・カベルネソーヴィニヨンを用意し、わたしと兄のグラスに注ぐ。だから、その先の会話は言霊酔いかもしれない。

「ねえ、お兄さまは、わたしのことを試している」

「それをいったら唯の方がぼくのことを試しているだろう」

「お兄さまのあのプロポーズはまだ有効なの……」

「ぼくが結婚した時点で唯が無効にしていなければね」

「それを言ったら、わたしが結婚した時点でお兄さまのお気持ちに変わりがなければ……」

 そこで暫し無言となり、二人して食事を進める。

「美味しいな」

「ありがとう、お兄さま」

「唯のことは愛しているが、その身体を抱きたいかどうかは……」

「愛とは関係なく、わたし、お兄さまのお相手ならばいつでもできますよ。だって……」

「知っているよ。……というより、知ってしまったんだ」

「そうだったのですか。ならば、唯は気持ちを変えます。わたしの身体をお兄さまに差し上げます。だから元の唯に戻してください。そうしてくださればもう一度、唯はお兄さまの本当の妹に戻ります」

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