50 展
家の周りを老紳士が徘徊する。ぼくは気づかなかったが、保坂さんが気に留める。
「旦那さま、ちょっと気になることがありまして……」
そんなふうに話を切り出し、小声で言う。
「前にも見かけたことがある人ですが、暫く見ないので忘れていました。。ですが、また家の周りを歩くようになり……」
「そうか。きみに心当たりは……」
「さっぱりです」
「母の関係者かな」
「怪しい方ですか」
「何だい、それは……。単なるファンかもしれない」
「そういえば時々、巡礼者が現れますよね」
「母が生きている頃から、ずっといたよ。もちろん母は取り合わなかったが……。きみが例外だ」
「そうでした。わたしは押しかけでした」
「運の強い人だ、きみは……」
「ありがとうございます。で、どう致しましょう」
「どう、って、放っておけばいいさ。悪さはしていないのだろう」
「それはそうですが、薄気味悪くて……」
「では、ぼくが一言放つか」
そう告げ、ぼくが玄関に向かと、保坂さんが呆気にとられる。保坂さんにとって、まさかの行動だったらしい。
「旦那さま、危ないことは……」
「この家には守衛がいるから平気だよ」
が、小門を開け、家の外に出ても、それらしき人影はない。代わりに目についたのは外国人だ。アメリカ人か、イギリス人か、判断はつかないが白人の若い女。目が大きい。髪が長い。知的な感じもするが、精神を病で犯されている人のようにも見える。ぼくの勘違いでなければ……。ぼくたちの住む家のことを気にかけているようだが勘違いかもしれない。まさか、彼女も母の小説のファンだろうか。母の小説の一部は英語とフランス語に訳されている。だから海外ファンがいても可笑しくないが、日本国内でのような人気はない。が、どの国にも熱心なファンはいるものだ。彼女がそうかどうかは、ぼくには見当がつかないが……。
現在、母が植物人間であることを知るものは少ない。母は有名人だから事故については報道されたが、詳細と続報がない。また『耀ける大地』以降、新しい本が出版されないのは筆を折ったから……ということになっている。憶測記事的な扱いだが……。日本国内さえでそうなのだから海外ではなお事故後の母に関する情報は少ないだろう。
ぼくがそんなことを思っていると不意に彼女と目が合ってしまう。彼女はぼくの顔に何かを感じたように首肯くと、その場を去る。後には狐に鼻を抓まれたような顔のぼくが残される。
「残念ながらいなかったよ」
疑念を振り払うように家に戻ると保坂さんに言う。
「そうでしたか。お手数をおかけ致しました」
「また来るのかな」
「ストーカーとかだったら厭ですね」
「母のかい、それともきみの……」
「唯さんかもしれません」
「それにしては、父親以上に年が離れているよ」
「唯さんは年上の方にもモテるんです」
「今どき少ない質素なタイプだからかな」
「男の人の幻想を擽るのです」
「ぼくは唯に神秘性を感じないよ」
「それはご兄妹だからでしょう」
「そう言えば、女性にもモテるらしい」
「ああ、わかります」
「保坂さんも好きかい」
「トンデモナイ、勿体ない」
が、そう堪える保坂憲子の顔は赤くなっている。ぼく自身中学の頃、同性に惹かれたことがある。その経験から想像するが結論は出ない。保坂さんが唯を好きになるのは自由だが、もしも二人が付き合うようになれば、ぼくの心中は穏やかではないだろう。
「保坂さん、顔が赤いよ」
「旦那様がヘンなことを仰るからです」
「まあ、せいぜい頑張ってください」
「頑張るも何も、もう、揶揄わないでください」
「世の中もそうだが、人の心もどう変わるか知れやしないよ」
「だから人は小説を読むし、書くのでしょう」
最後はそんなふうにはぐらかし、保坂さんが母の部屋に去る。ぼくは自室に戻り、尚子さんから送られた手紙の内容を反芻する。
『偏さんには大変申し訳ないことを致しましたが、そのことについてはもう触れません。』
尚子さんからの手紙の書き出しだ。ついで、
『入江良光と結婚を前提に付き合うことになりました。だから正直言って地獄の日々です。ですが何とか毎日を暮らしております。』
その先は簡単な状況説明だが、余りにも簡単過ぎ、ぼくには状況が見えてこない。が、尚子さんの正直な気持ちだけは伝わる。だから、それで良いのだろう。彼女が選んだ道なのだ。ぼくとの結婚という廻り道はあったが、それで気づけた愛かもしれない。尚子さんのせいで一つの家庭が毀れるが人生には避けられない選択もあるからだ。後は毀れた家庭と幼い娘さんの心が無事なことを祈るしかない。ぼくに出来るのはそれだけだ。
「ただいま」
唯が買い物から帰ってくる。
「お帰りなさいませ、唯さん」
すると、いつの間にかその場に現れた保坂さんが挨拶する。
「半分持ちますよ。すぐにお夕食の用意を始めますか」
「十分は休みたいわね」
「じゃあ、わたしも休憩しますから、お茶にしましょう」
「それはいいけど、お兄さまは……」
「ぼくは部屋で調べ物をするから、お二人でどうぞ」
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