42 帰
「ただいま」
おそらくそうだと思ったが、唯さんが玄関ドアを開け、顔を覗かせる。
「おかえりなさい、お嬢様」
唯さんを出迎えた保坂憲子が透かさず言う。
「元人妻にお嬢様はないでしょう」
思わず吹き出しながら、唯さんが応えると、
「ならば、何とお呼びいたしましょうか」
保坂さんが応じる。
「任せます」
「元若奥様では可笑しいですよね」
「唯でいいわ」
「では、唯お嬢様」
「結局、お嬢様は付くのね」
「事実先生のお嬢様ですから省くわけにはまいりません」
「困ったわね。お義姉さんは何と呼ばれているの」
「お義母さまがいらっしゃるときは若奥様よ」
「いないときには……」
「尚子さんにしてもらったわ」
「ならば他に人がいないときは、唯さん、でお願いします」
「畏まりました」
「あなたは面白い人ね」
「良く人にそう言われます。早速ですが、唯さん、お部屋までご案内いたします」
「部屋が残っているのが驚きね」
「お義母さまは片づけたがっていたようだけど、元々あまりモノのない部屋でしょう。それで延び延びになって……」
「最悪の出戻り娘か」
「唯さん、もうお義母さまには……」
「ここに来る前に病院へ寄ったわ」
「そう」
「とても優しいお顔をしていて……」
「わたしも未だに信じられなくて……」
「でも意識はなかったと思う。わたしに気づけば怖い顔になったはずだから……」
「……」
唯さんに返す言葉を、わたしは思いつけない。その間に、保坂さんが唯さんを引き連れるように二階の自室へ……。暫くして保坂さんだけが降りてくる。
「唯さんの様子は、どう……」
「すごくお疲れのようでした」
「無理はないわね。いきなり未亡人になって、しかもその原因が……」
「わたしは詳しく伺っていません」
「わたしもお義母さまから聞いた以上のことを知らないわ。だから憲子さんと同じ……」
「それにしても、お綺麗な方」
「お義母さまに似ているでしょう」
「でももっと優しいというか」
「そうね」
「女の色気も感じました」
「あっ、それはわたしも……。前にはなかった感じだから」
「そうなのですか」
「わたしの一番良く知っている唯さんはお人形さんだもの……」
「確かに……」
「でも心の傷は癒えないわよね。簡単には……」
「ですけど、そんな雰囲気をまったくわたしに感じさせませんでした。ですから……」
「上手くはいかなかったけど結婚して強くなったのかもしれないわね」
「それは尚子さんも同じですか」
「わたしの場合は昔から好きだった人と結婚したわけで……」
「だから……」
「男でも女でも……。憲子さんも強く愛されてみればわかると思うわ」
「……と仰られても、さっぱりわかりません」
「じゃあ、恋愛小説を書けないわね」
「いえ、それは書けますよ。実体験は時として邪魔になるだけですから」
「お義母さまの遺作はどうなのかな」
「傑作ですよ」
「小説の出来は別として主人公の女性、お義母さまご自身がモデルなのかしら」
「あれは満州事変の頃のお話ですよ。先生はまだ、お生まれになっていません」
「それはそうだけど今が透けて見えるでしょう」
「スケールは違いますけどね」
「つい最近でも大手広告会社のスキャンダルがあったし……」
「あの時代なら国通(満州国通信社)ですか。でも今、阿片はありません」
「そういえば、当時から国内では取り扱いが厳重だったらしいわね」
「ところで尚子さんは池ノ上守恭という人をご存知ですか」
「直接には知らないわ。でも、この家で名前を聞いたことはある」
「そうですか」
「その方がどうかされたの……」
「たぶんですけど『耀ける大地』の男の方のモデルです」
「へえ、そうなんだ。で、どんな人……」
「一言で言うと謎の人です。現在は総合商社の会長さんですけど裏の顔もあるらしくて……」
「ふうん。またしても、わたしには想像できない世界の話……」
「先生を利用し、且つ利用された中だと思います」
「小説の中では裏はなかったけど……」
「先生がそう言うふうに書いたのだと思います。でも一回、会ってみたい……」
すると不意に、その場に現れた唯さんが言う。
「あなたが本気ならば会わせてあげてもいいわよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます