第六話
『どうして』
闇の中、声が降る。とても苦しそうな、母様の声。
『どうして』
母様? どこにいるの? 辺りを見回す。真っ暗で、なにも見えない。天井も、床も、壁も。ただ闇の中に、わたしは浮かんで、上から降り注ぐ母様の問いかけを浴びている。
『あのひとと私の子供のはずなのに、どうして、あなたの眼は黒いの。どうして、あなたの髪は黒いの』
どうして、どうして。繰り返し、くりかえし、声はつづく。段々、涙の色を、
やめて。泣かないで。わたしは、母様の子供よ。
そう言いたいのに、答えたいのに、声が出ない。
『あのひとの子供じゃないの? あの男の子供だっていうの?』
母様。
『あのひとと私の子供なら、どうして、あなたは――』
*
飛び起きると、陽はそろそろ真上にさしかかろうとしている頃だった。文机の上に、書き終えた半紙の束が雪崩を起こしている。読み書きの宿題を終えたのと同時に、わたしは少し、うたた寝をしていたらしい。
(夢……?)
ふと頬の違和感に触れてみると、涙の雫が伝った跡があった。急いで袖の先で擦って拭う。姉様に見つかったら、また心配させてしまう。
(あの夢……あの男の人がふたり出てくる夢以外の夢をみたの、初めてだ……)
どうして泣いてしまうのだろう。夢から
散らばった半紙の山を整えながら、小さく息を吐いたとき、とんとん、と階段を上がる軽やかな足音が聞こえた。姉様だ。
「金平糖を貰ったの。一緒に食べよう」
無邪気に明るく、姉様は笑う。きらきらと眩しく、温かい。わたしも自然と笑顔になれる。
雲の覆いの向こうにあるというおてんとうさまも、きっと、こんな色と温もりをもっているのだろう。
余った半紙の上に広げた金平糖を摘まんでいると、階段の下、玄関のほうが
『お客さんかな?』
裏紙に、薄めた墨で走書きをして、わたしは姉様に話しかける。
「お客なら、こんなにざわついたりしないでしょう」
『じゃあ、女将を診に来たお医者様とか?』
この楼の女将は姉様よりも十歳ほど年上で、今とてもおなかが大きくなっているとかで、楼の裏手にある、楼主の住まう離れの更に裏手に建てられた産屋に、ずっとこもっているらしい。
「とりあえず、行ってみようか」
顔を見合わせて頷き合って、わたしたちは同時に腰を上げた。
上がり
何を話しているのだろう。姉様とふたり、柱の影から様子を窺う。ちらりと周りを見回してみると、わたしたちと同じように、様子を見に来た花や蕾や苗たちが、物陰から彼らを覗いている。非日常に興味を引かれるのは、みんな同じみたいだった。
「先日、医師の見習い試験に合格しましてな、次回の検診から、私に同行させることになりましたのじゃ」
「随分とお若い方ですね」
「……来月、
一礼して、男の人が答える。そうですかあ、と楼主の笑みが深くなる。
「それは、それは、優秀な方のようでなにより。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
改めて頭を下げながら、「初冠の宴は是非、うちの見世で」と言い添えることは忘れなかった。さすが楼主だ。
背の高い男の人だった。短くさっぱりと整えられた
最後に深々と礼をして、男の人はお医者様とともに、すっと静かに
男の人の右目は、黒い眼帯に覆われていた。
ふっと、
(あの眼……)
わたしの心臓が、ちいさく跳ねる。
(夢でわたしを見下ろしていた男の人と、同じ色だ)
男の人の左目は、たしかにこちらに向けられていたけれど、視線はわたしに注がれてはいなかった。きっと姉様を映したのだろうと、わたしはぼんやりと思った。
「かっこよかったねえ」
「
「
「橡様と
「来月、初冠ですって。この見世を選んでくださらないかしら」
「あら、そもそも《花籠》とも限らないわ。お隣の《星籠》をお選びになるかもしれないわよ」
「えー、男の子を抱くひとにはみえなかったけどなあ」
彼らが帰ったあとの楼では、年上の花、
姉様は、姐やたちの話には加わらず、彼らが暖簾をくぐったのを見届けるとすぐに部屋へと踵を返していた。姉様はなにも言わなかった。わたしはただ、姉様のあとを追いかけた。
廊下を通って、姐やたちの声が聞こえてくる。
「もしこの見世を選んでくださったとして、あの方は、誰を、ご指名なさるのかしら」
「誰が指名されても恨みっこなしだからね」
「当然よ。いつものとおり、恨みっこなし」
「でも、やっぱり、選ばれるとしたら、桔梗じゃない?」
誰かの一声に、しん、と刹那、沈黙が走った。
「……そうねえ、桔梗なら、わたしたちに勝ち目はないわね。別格だもの」
「天は二物を与えずって、ほんとうね。桔梗も、睡蓮も」
「まったくだわね。途方もない欠陥と引き換えに、途方もない美貌を与えられましたって感じ」
「何事も、ほどほどが、ちょうどいいのよ」
「あはは、その言い方、年寄りくさいよ」
姉様は、静かにわたしの宿題をみていた。
「睡蓮」
呼ばれて、わたしは崩していた足をぱっと正した。はずみで文机に肘が当たってしまい、ばらばらと零れそうになった金平糖を、わたしは慌てて両手でおさえる。そんな一人芝居めいたわたしの仕草に、姉様が、くすりと表情を和らげた。
「読み書きも、もう大丈夫ね」
そこには、いつもと同じ、やわらかな姉様の微笑があった。白い右手が、すっとわたしに伸ばされる。
「ひとつ、ちょうだい」
かるく首をかたむけてねだる姉様に、わたしもくすりと笑って、その白い掌の上に、薄紫の金平糖を置いた。姉様は、それを、そっと左手でつまんで、白い前歯にはさみこむ。さっき、わたしがしたのと同じように。ぱきん、と澄んだ、お砂糖の結晶が砕ける音。
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