第十九話

 研究棟に隣接する、診療棟の一角。厳重に人払いを施した個室の寝台に、その少女は横たえられていた。布で編まれた縄が、少女の細い手足と寝台の柵を繋いでいる。鉄の鎖でないことが、せめてものいたわりか。こんな拘束なんてしなくとも、この少女は逃げたりなどしないだろうにと、柊は僅かに眉を寄せた。

 だが、貴重な検体であることは、確かだ。

「おはよう。足の痛みは、すこしはましになったかな」

 包帯の巻かれた少女の両足を見遣って、柊は言った。昨日の朝まだき、任務に出てから丸一日以上姿を消していた鴎が、気を失ったこの少女を抱えて現れた。ふたりとも、手足にひどい凍傷ができていた。とりわけ、少女の足には、凍傷に加えて、火傷もあった。

 少女の火傷が、燃え盛る楼の中を裸足で駆けたことによるものならば、ふたりの凍傷はどこで負ったものなのか。きけば、それについて鴎は決して口を割らなかったのだという。

「私は、柊。社の抱える研究機関の、主任だ」

 柊は静かに、窓のとばりを上げた。白い朝の光が、さっと部屋の薄闇を払い、うつろな少女の青い瞳が、ゆらりと柊を見上げる。少女の視線を受けとめて、柊は微笑んだ。

「鏡は、もう見たかな」

「……ええ」

 生まれもった黒い髪と瞳が、何故、一夜にして銀の髪と青い瞳に変わったのか……普通の人間として生まれたはずの少女が、何故、羽人の力を、手にしたのか。

「誰に、何度、きかれても、わたし、理由なんて、知らない」

「うん。いいよ。構わない。私が今日、直接、確かめたかったのは、その事実だから」

 寝台の傍の椅子に、柊は腰を下ろした。

「羽人の力は、今まで、ずっと、先天性のものだと考えられていた。その常識を、君はくつがえしてしまった。興味深い。実に、興味深い」

 長い脚を組んでひじをつき、柊は笑みを深めた。

羽化うか、とでも名付けようか。羽人の力が後天的に獲得し得るものならば、その呼び水は何なのか。あるいは、もともと個体に備わっていた素因が発現するものならば、その引き金は何なのか。新たな研究課題を、君は与えてくれた」

 君の血と髪を少し貰うよ、と柊は言った。少女は答えなかったけれど、抵抗することもなかった。すきにすればいいということだろうか。笑みを崩さないまま、柊は軽く息をつく。

「……青い光を抱いた、白いばけものを、君は見たかい?」

 声をひそめて投げかけられた問いに、少女の肩が、ちいさく跳ねる。

「あれは……何、なの……?」

 震える少女の声。柊の笑みが深くなる。

「うん。あれは、《かみさま》。君も、きいたことはあるだろう。空から常に方舟を狙い、人々を滅ぼしにかかっている、脅威の権化。あの夜、一柱だけ、方舟に入り込んだのだろうね」

「あれが……かみさま……」

 少女の手がきつく握りしめられていくのを眺めながら、柊はつづける。

「そう。そして今の君には、あれをほふれる力がある」

 淡々と連なる柊の言葉。うつろだった少女の瞳に、閃くような光が灯る。

「羽人はね、戦闘機になれるんだ。戦闘機になれば、思う存分、《かみさま》を狩れるよ」

 畳みかけるように、柊はささやく。少女は望むだろうか。少女に望ませることはできるだろうか。目を伏せて席を立ち、ああ、と思いついたような軽い口調をつくって、柊は言い放った。

「君が助けて橡に託した赤子だけど、夜明けとともに死んだよ。屋根が落ちたときに、はりか何かで腹を打っていたんだろうね。内臓があちこち潰れていて、手の施しようがなかったらしいよ」

 残念だったね、と言い置いて、柊は静かにきびすを返した。湛えた白い微笑を、いささかもゆらがせることなく。

 閉ざされた扉。再び満ちる、白い静寂の中で、少女は包帯の巻かれた両手を握りしめた。きつく、きつく。

「……わたしは……なにひとつ……」

 あえかな声は、誰の耳にも届かないまま、冷たい床に落ちて消えていった。

 涙は、もう流れなかった。

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