第十八話

 唄が、きこえた。

 燃え盛る炎の中から、生まれた風に乗って。


 遠方を飛ぶ他の方舟を偵察する任務を終えて降下をはじめた頃には、深夜近くになっていた。

 雲のとばりの向こう、焦げくさい臭いが鼻先を掠めて、鴎は眉を寄せた。下降速度を上げ、雲を抜ける。途端にひらける視界。まばゆいくれないの光が、夜闇に慣れた目を射るように飛び込んでくる。

 社に程近い《籠》の一角から、火の手が上がっていた。噴き上がる炎が煌々こうこうと、空を覆う雲の屋根を照らし出している。

 動ける人間は全て避難した後なのか、悲鳴は聞こえなかった。炎から逃れた人々のざわめき、泣き声、飛び交う火消ひけしの号令が、混じり合い、重なり合い、炎にまかれた楼閣の崩れゆく轟音とともに、わんわんと響いていた。

 不意に、一陣の風が吹き抜けた。普通の風とは違う、下から強く、吹き上げる風だった。それは渦を巻き、炎をあおり、辺り一面に火の粉の雨を降らせ、鳴り止んでいた悲鳴を再び人々の口から放たせていく。

(……唄……?)

 吹きすさぶ風の中、鴎の耳が、ひとつの幼い声を掴んだ。

 炎の下から生まれた風に、とけた、歌声。

(この楼の中に、誰か、いるのか……?)

 誰が……? 唇を引き結び、鴎は空を蹴った。歌声を辿たどって、炎に包まれた楼の中へ。

 唄が、止んだ。風とともに。まだかろうじて火の手のまわっていない楼の一角に、鴎は降り立った。

(どこだ……?)

 煙に軽く咳き込みながら、視線をめぐらす。

 ふわり。頬を風が撫でた。炎が生む熱風とは違う、ひんやりと凍えるような冷たい風だった。強く、弱く、ゆらぎながら、奥の部屋から、流れていた。

 廊下を進む。風を頼りに。

 ふすまの向こう、鴎は、ふたりの少女を見つけた。

 瞳を閉じた黒髪の少女が、もうひとりの少女を守るように、いつくしむように、抱いていた。腕の中には、うつろな青い瞳をした、銀髪の少女。

「きみが……」

 鴎の声が、少女のまとう風にとける。少女の青い瞳は、何も映してはいなかった。

「このまま、ここで、焼け死ぬつもり?」

 一歩、距離を詰め、鴎は少女に問いかける。反応は無い。

「そのひとは、きみに、生きてほしいと、望んでいなかった?」

 穏やかな声で、淡々と、鴎はつづける。

「その美しいひとを、こんな場所で燃やしてしまって、きみは、良いの?」

 鴎の声が、少女のもとへ、雪のように静かに降りていく。

「きみが望むなら、そのひとを、もっと綺麗で静かな場所に、横たえてあげることもできるのに」

 ぴくり、と微かに少女が身じろぐ。瞬きとともに、青い瞳が、鴎を見上げる。問うような少女のまなざしを受けとめて、鴎は微笑んだ。

 羽織を脱いで、鴎は屈んだ。黒髪の少女の体を羽織で包み、抱き上げる。ゆっくりと、銀髪の少女も体を起こした。

 鴎は導く。

「わかる? 今ここに流れているのは、きみの紡いだ風だ」

 一言、一言、語りかけるように、鴎は言った。

「みえるだろう、今の、きみなら、この風の流れが。今はただ定めをもたず吹いているだけだけれど、この風を操れば、ここから飛び立つことができる」

 少女の青い瞳が、ゆらりと周りを見渡した。少女のまとう、風の流れが変わる。鴎は頷いた。

「ぼくが風の帯をつくって、きみの飛行を支える。ぼくの袖から、手を離さないで」

 ふわり。鴎と少女を、ゆるやかな気流が包む。舞い散る火の粉を払い除け、炎を抑え、空へと吹き上げるまっすぐな風。

 白く小さな少女の手が、鴎の袖を、そろそろと掴んだ。

「ぼくに合わせて、床を蹴って。風に乗れば、簡単に飛べるから」



*



 雲の下すれすれの高さを飛んでいく。ただひたすらに、南へと向かって。

 どれくらい飛んだのか、鴎が次第に下降をはじめた。方舟の飛ぶ高さよりも、低く、どんどん低く。

 鴎の袖を握る少女の手に、途惑うように力がこもる。

「地上へ、降りるの……?」

「うん」

 あっさりと頷く鴎に、少女の瞳がゆれる。鴎はくすりと口角を上げ、振り向かないまま言った。

「〝人のむ大地は毒におかされて、皮膚はただれ臓腑は崩れ、血を吐いて死ぬようになった。だから先人は《方舟》をつくり、空へと逃れた。〟だっけ。おとなたちがぼくらに教える、ぼくらの歴史」

 足もとに広がる、白い大地。濃さを増す空気が体に絡みつく。

 ぼくがひねくれているだけだろうけど、と前置きして、鴎はつづけた。

「人の棲んでいた場所が汚染されたのなら、もともと人の棲めなかった場所はどうなんだろうって、思わない?」

 降り立ったのは、四方を海に囲まれた、氷の原だった。風も無く、空気は清浄だった。たとえ、おとなたちの教える歴史が本当だとしても、この地に、毒は、届いていない。

 静かだった。何の音も、きこえなかった。どこまでも澄んだ透明な空気が硝子のように満ちている。

 一面に広がる、ひららかな白。ここでは、全てのものの時間が止まる。腐ることも、朽ちることもなく、綺麗なまま、永久とわに眠らせることができる。

 抱えていた黒髪の少女を、そっと降ろして、横たえる。

 俯く銀髪の少女に、鴎は言った。

「上を、みてごらん」

 満天の星空だった。雲の覆いは欠片もなく、どこまでも黒々と澄んだ夜空に、金砂、銀砂をばら撒いたように幾千、幾万の光が輝いている。

 星だけじゃない。色とりどりの光の糸で織られた紗が、舞うように、ひらり、ひらりと空一面にひるがえっている。

「綺麗……ここは、ほんとうに、地上なの……?」

 息を呑み、少女が振り返る。銀の髪が、細い肩を、さらりと流れる。黒髪の少女の傍に膝をつき、銀髪の少女は、その手をそっと握った。唇が、ちいさく「姉様」とほころぶ。

 方舟で死ねば、おとなも、こどもも、皆、方舟の後端にある《弔岬とむらいみさき》に運ばれて、投げ落とされる。地上へ還すのだ、とおとなたちは言う。

 雲の覆いをもたないこの場所に、方舟が訪れることはない。

 飛べないおとなは、ここへは来られない。ここは、おとなの手に触れられることなく、眠りにつける場所。

 もともとは、鴎が、自分のために、みつけた場所。

「……きれいね、姉様……」

 星が降る。光の紗がゆれる。

 ここなら、きっと、さみしくない。

「きみは、ここにいたら死ぬよ」

 死ねるよ。背中にかかる鴎の声に、少女は頷く。ゆっくりと立ち上がり、さしのべられた鴎の手をとった。

 戻ろう、方舟へ。罰を得るために。

 地を蹴って、ふわりと飛び立つ。瞬く光をちりばめた、願いそのもののような、夜空の中へ。

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