第十七話
静かな夜だった。姉様を指名した客の到着が遅れ、あと一刻ほどで大門が閉まるだろう頃になっても、部屋の
『お客さん、遅いね』
なにかあったのかな、とわたしは火鉢の灰をつついて姉様に話しかける。そうね、と姉様は曖昧に相槌を打ち、火鉢にぴったりと体を寄せた。足の美しさを魅せなければならないわたしたちは、仕事のあいだ、
どこかから聞こえてくる、姐やの誰かの嬌声。わたしの耳は、他の人が拾えない微かな音や声も掴んでしまう。声を出せない分、普通の人より耳が良くなってしまったみたいだった。
ふと、襖の向こうに気配を感じた。お客さんかな、と、わたしはすっと腰を上げる。お客さんなら、襖がひらくのに合わせて、お辞儀をして、出迎えなければならない。一歩、二歩、襖へと近づく。あとすこしで定位置に着く、その、一瞬、前、
――さがれ!
頭の中で、鋭い叫びが閃いた。直感、本能、反射、そんな何かが、わたしの神経に命令を下し、とっさにわたしの体を後ろへ退かせていた。
目の前の襖が、爆ぜるように飛んだ。ひゅ、と刹那、追い風が吹いて、わたしの鼻先ぎりぎりのところを、真っ赤な炎が掠めていく。逃げ遅れたわたしの髪の先が数本、炎の手にかかり、ちりりと焦げる。
「睡蓮!」
立ち竦むわたしの手を、姉様が引いた。瞬きひとつ数える前に、わたしの居た場所の畳が、床が、抜けて落ちる。燃えた廊下が崩れ、引きずられるようにわたしたちの部屋も傾く。手を繋ぎ合ったまま、わたしたちはひとつ下の階に滑り落ちた。わたしの両耳を、姐やたちの、客たちの、悲鳴が埋める。
下の階には、炎はなかった。けれど煙が立ち込めて、視界を、呼吸を、奪っていく。外へ外へと逃れる人の波にもまれながら、わたしたちは中庭を抜け、楼の外へと駆けていく。何が起きているの。さっきの炎は何なの。混乱の中、駆けながら、わたしの耳が、ひとつの泣き声を拾った。なぜ届いたのか不思議なくらいの、弱々しい泣き声だった。けれど、悲鳴と怒号をくぐりぬけて、それは確かに、わたしの鼓膜を震わせていた。
声の方を振り向く。逃げ惑う人々の影の向こうに、半ば焼け落ちた産屋が見えた。
無意識に、手を、握りしめていた。
「睡蓮?」
振り返った姉様を見上げて、わたしは微笑んだ。多分、きっと、微笑むことができていた。
先に行って、姉様。
繋いでいた手を、わたしは、解いた。わたしの名を呼ぶ姉様の姿が、人の波に流され、あっというまに遠ざかっていく。身を屈めて、わたしは人々の奔流を抜けた。ひとり、崩れた産屋へと走っていく。
すぐ傍に、折り重なる柱や
(入れない……)
頭ではわかっているのに、体が、動かなかった。足が、土に根を張ったように竦んで、一歩も踏み出すことができない。
(……だめだ……わたし……この中……)
口もとに手を遣る。足が、肩が、震える。歯の根が合わない。わたしの中で、耳から聞こえる声とは別の、幼い声が、泣き叫んでいる。
だして
いやだ
せまい
くらい
こわい
たすけて
ここからだして
おねがい
ゆるして
かあさま
ひゅ、と喉が鳴いた。凍てついたわたしの声帯を、熱を抱いた風が吹き抜けていく。それはやがて、う、あ、あ、と夜を奏でる喘ぎにも似た音を生み、わたしの喉の奥から吹きあがった。それは、刃だった。口から溢れ、放たれた、それは、凍りついた爪先を弾き、足を縫いとめる根を切った。
地面を、
体を屈めた。這いつくばって、隙間に体を滑り込ませる。何も見えない暗闇の中、微かに聞こえる泣き声を
重なり合う梁と柱のあいだに、薄らと射す、光を見つけた。僅かな隙間から漏れてくる、外の光。それに照らされた、腕があった。血に
手を伸ばした。片手じゃ足りなくて、さらに這い寄って、両手を伸ばした。女将の腕から、わたしの腕に、引き寄せて、抱きしめた。重くて、あたたかかった。生々しい、命の塊だった。
――母様。
洞の出口へと、わたしは進んでいく。帰っていく。狭くて暗い、
――わたしは、生きてきた。母様、あなたに、ゆるされなくても。
泣き叫ぶ命を抱えて、わたしは夜の中に立った。迫る炎が火の粉を噴きあげ、曇った空を焦がしていく。ゆっくりと息を吸って、止める。煙の向こう、楼の外へ向かって、わたしは地を蹴った。
逃げられる人間は全て逃げた後だったみたいで、さっきまで怒涛のように押し寄せていた人の波は
「この子を、お願い……」
限界だった。橡様に託すので、精一杯だった。膝から力が抜ける。遠ざかる意識を必死で繋ぎとめて、四つん這いになって咳き込みながら、わたしはひとだかりの中、たったひとりを探す。
いない……?
「姉様は……どこ……?」
零れ落ちたわたしの言葉に、橡様の顔色が変わる。
「こっちにはいない。一緒じゃなかったのか……?」
まさか。
制止の声が、遠く、聞こえた。燃え盛る楼の中へ、わたしは飛び込んでいた。
姉様、まさか、わたしを追って……?
楼が、崩れていく。炎にまかれて、焼け落ちていく。
姉様と別れた中庭にも、そこへ至るまでの回廊にも、姉様の姿はなかった。
姉様、どこ、どこにいるの。
廊下を走る。焼けた人のなきがらが、いくつも、いくつも、転がっていた。その身にまとうものが姉様のものでないことに安堵して、わたしは姉様を、探しつづける。
炎に包まれていない、さいごの一角に来た。廊下を折れようとしたとき、わたしの耳に、願いつづけた声が響いた。
「来ちゃだめ!」
姉様の声だった。わたしを押しとどめる声だったけれど、それが届いたときには、わたしは既に角を曲がりきっていた。
炎の中、わたしは、そいつの、姿を見た。
白い体が、ゆらりと振り向く。内側から、ほんのりと淡い、青い光を放っていた。わたしよりもすこし高いくらいの、こどもの背丈。ひとのかたちをしていた。けれど、ひとじゃ、なかった。
そいつの
「睡蓮!」
声がした。ふわっ、とわたしを抱きかかえる腕を感じた。視界が反転して、背中に衝撃。すぐ傍の部屋に、倒れこんでいた。
体の上に、わたしに覆い被さる姉様の体があった。
「……姉様……?」
姉様の背中が、
ゆらり。そいつが、部屋へと入ってくる。わたしたちを見つけて、歩いてくる。壁に、天井に、白い炎を吐きながら。
それは、燃やす炎ではなかった。ものを燃やす赤い炎は二の次で、そいつの吐く白い炎は、あらゆるものを融かす炎だった。
ぺたり。そいつの足が、すぐ傍の畳を踏んだ。
そいつの口が、
けれど、
(炎を……吐いてこない……?)
そいつの動きが、止まった。途惑うような素振りをみせた。
ゆっくりと、わたしは手を伸ばした。姉様の髪に
(姉様、今だけ、これをわたしに、貸してください)
引き抜いて、逆手に構えた。橡様から頂いた、お守りの簪。ありったけの力を込めて、そいつの胸に、突き立てる。
悲鳴はなかった。ただ、そいつは飛び
「……睡蓮、無事……?」
浅い呼吸。途切れ途切れに、姉様の声が降る。腕の中、わたしは何度も頷いて、姉様を見上げる。
「姉様が……
わたしの声に、姉様は刹那、瞳をゆらして、わたしを、ぎゅっと抱きしめた。姉様の唇が、よかった、と
「声、戻ったのね……」
「はい……」
「可愛い声……良かった……これで、何の
静かだった。ぱちぱちと燃える炎の音だけが響いていた。
「行って、睡蓮。炎が、まわりきってしまう前に」
「嫌……」
首を振る。わたしのせいだ。わたしの、せいだ。
「睡蓮、わたしは、あなたを、助けたかった。わたしは、自分の望みを、叶えただけ」
腕がほどかれる。握りしめていたわたしの手から、そっと、簪を取りあげて、姉様はそれを、わたしの
「お守り……これからは、あなたが持っていて」
「姉様……」
姉様の右手を、両手で握る。ひんやりと冷たく、白く細く、優しい、姉様の手。
「姉様は、仰いました。かなしい夢をみたときは、誰かと一緒にいるほうが良いと。こわい夢も、いやな夢も、みんなそうだと……姉様、あのとき姉様は、わたしの傍にいてくださいました。今度は、わたしに、それを、返させてください」
こんな寂しいところで、ひとりで死なないでください。
「だめよ、睡蓮……あなたは、生きなくちゃ……あなたの体は、これから、いくらでも、未来をつくれる……未来を、結べる」
姉様の瞳から、涙が一筋、流れた。炎を映して、きらきらと赤く、紅く、星の軌跡のように。
綺麗だった。美しかった。強くて、健気で、弱かった。言葉でわたしを突き放そうとしながら、瞳は揺れていた。行かないで。ここにいて。ひとりにしないで……そう、
「……ならば、姉様」
そっと、わたしは、手を伸ばす。細くて白い、姉様の首に。
「わたしに、罪をください」
わたしをみつめる姉様の瞳が、ふっと、ゆるんだ。泣きながら、姉様は、今まででいちばん綺麗な、こどもの色で微笑んだ。
「あなたが、眠らせてくれるの……?」
涙が溢れる。光が流れる。わたしは頷いた。姉様の手がわたしの頬に、ひらりと重なる。
「これで……もう、さみしくない……」
ありがと……そう、ひとつ、わたしに心を宛てて、姉様は瞼を、そっと下ろした。微笑んだまま、すっとわたしに、体を
首にまわした両手に、力をこめた。姉様の命の音が、掌から腕を伝い、わたしの体中に響き渡る。奏でるように。刻むように。
――こういうとき、子守唄をうたうことができたら良いのにね。
いつかの姉様の言葉を思い出していた。そっと、わたしは、唇をひらく。
眠れや 眠れ 星降る夜に
唄を、紡いだ。いつか、わたしの耳が憶えた、子守唄だった。
眠れや 眠れ いとしき胸に
わたしは、うたう。取り戻した声で。ただひとり、姉様に宛てて。
眠れや 眠れ 私の腕に
姉様の面持ちは穏やかだった。さみしい心も、かなしい心も生まれない、あたたかな場所で、遊び疲れたこどもみたいに、安心しきった幼い表情を浮かべて、姉様は、眠った。
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