第十六話
糸が切れたように姉様が倒れたのは、今年最初の雪が舞った朝だった。
中庭の桜の木の下に、姉様はぼうっと立っていた。灰白色の空を背に影絵のように広がる、黒々とした
ひらひらと舞い落ちる雪は花弁みたいで、その中に佇む姉様の後姿は、満開の桜のもとに舞い降りた精のように見えた。
縁側から中庭に降り立ったわたしの足音に、ふっと振り返って、姉様はわたしをみつめた。白い頬のまんなかで、ほんのりと色付く薄桃色の唇が、すいれん、とわたしの名前を編む。ふわり、と綻ぶ、透きとおるような面持ち。微笑もうとしてくれたの? ねえ、姉様。桜の下に倒れた姉様に駆け寄る。夜空の瞳を閉ざす瞼も、触れた頬も、握った手も、白くしろく、雪そのものみたいに、冷たかった。
楼主には、ただの風邪だと、お医者様から説明していただいた。目を覚ました姉様に、お医者様は「なるべく温かい部屋から外へ出ないように」と忠告した。びっくりさせてごめんね、と姉様はわたしの頭を撫でた。わたしは俯いて、姉様の手を両手で包むようにぎゅっと握った。わたしの手も肩も、震えが止まらなかった。あのまま、もう二度と会えなくなるのかと思った。もう二度と目をあけてくれないのかと思った。こわかった。心臓が凍えて、竦んで、止まりそうだった。これが、いつか、ほんとうになるのだ。嫌だ。いやだ。姉様。そのときは、わたしの心臓も、一緒に止まればいいのに。一緒に瞼を閉ざせればいいのに。
お医者様と橡様が、部屋から出ていく。見送りのため、わたしも滲みかけた涙を抑えて腰を上げた。一歩、二歩、三歩。
「綺麗……」
「お守りです。病が治るよう、祈念を込めておきました」
それだけ、短く伝えて、橡様は再び立ち上がった。姉様の返答を待つことなく、大股で部屋を出ていく。その手が、何かをこらえるように、きつく、きつく、握りしめられていることに、わたしは気付いた。たとえこの先、姉様が誰も抱けなくなっても、橡様は姉様を、変わらずにいとしく思ってくださるひとなのだ。遠ざかる背中。わたしは深く、頭を下げた。
「お医者様でも、奇跡を祈ることがあるのね」
簪をそっと慈しむように撫でながら、姉様がぽつりと呟いた。
「睡蓮」
わたしを見上げて、姉様は微笑んだ。いつものように。
「夜見世にはちゃんと出ると、楼主に伝えておいて」
*
楼主に姉様の
渡り廊下からは、中庭と、その向こうに佇む、楼主の
眠れや 眠れ 星降る夜に
眠れや 眠れ いとしき胸に
女将だった。垣根の向こう、離れから産屋へと歩いていく。腕に何かを抱えていた。見下ろすまなざしは穏やかで、とても、とても、優しい色をしていた。
眠れや 眠れ 私の腕に
ざあっ、と風に遊ぶ枯れ葉の雑音が、刹那、歌声を掻き消し、わたしは、はっと我に返った。
(わたしは……)
走って、走って、目についた布団部屋に飛び込んだ。姉様の部屋には戻れなかった。今、わたしがしているだろう表情を、姉様に見られたくなかった。絶対に、見せたくなかった。
震える右手の拳。左手を添えて、ひらく。いっそ夢だったらよかった。けれど、そんな都合の良い夢は、もちろんなくて、わたしの右手は、庭の石つぶてを、握っていた。
(嫌だ……こんなの、嫌だ……)
唇がわななく。震えた掌から滑り落ちた石は、床に転がり、ごとりと鈍い音を立てた。
(わたしは、なにを、しようとしたの……)
認めたくなかった。自分の中に、こんな醜い激情があったなんて、知りたくなかった。気づきたくなかった。
膝を抱える。顔を伏せて、ぎゅっと目を閉じる。こわかった。自分が、こわくて、たまらなかった。
堪えていた涙が溢れる。
泣いて、泣いて、泣き疲れて、刹那、うとうととまどろんだとき、わたしは、いつかのあの夢をみた。
わたしを見下ろす、男のひとの青い瞳。そこに映っていたのは、わたしと瓜二つの、女のひとの顔だった。決してわたしをみなかった、母様の顔だった。
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