第十五話

 社の表の業務が終わり、本殿へと至る大門が閉ざされた頃。柊の研究室の扉を、ひそめた幼い声が叩いた。資料をまとめていた柊は、耳に馴染んだ声に苦笑を浮かべ、席を立った。

「いつものことながら、抜き打ちの御来訪ですね」

「事前に連絡などしたら、わらわは帝として公に此処ここに来なければならなくなる。そうしたら、そなたたちは〝帝に見せるための実験〟をわざわざ用意しなければならなくなるのであろう? そんな茶番、時間も金も無駄ではないか」

 それに、と目を伏せた榊の頬に、耳のすぐ下くらいの長さに短く切り揃えられた、やわらかな銀髪がかかる。

「ありのままの姿で出歩いて、誰もわらわが帝だと気づかないのは、なかなか愉快なものでな」

 ほんとうにそう思っているならどうしてそんなかげった面持ちをするのだ、と柊は胸中で苦笑した。

「抜け出して来られたわけですね」

「ああ、もう慣れたものだ。そんなことより、どうだ? 柊。今日は女子用の短袴たんこ穿いてみたぞ。輸送機くらいには見えるだろうか」

 ふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべて、榊はくるりと回ってみせる。やれやれ、と柊は息をついた。

「その髪や瞳の色の鮮やかさから推測されるのは、輸送機より戦闘機の方でしょうね」

「ほう、戦闘機か。それは嬉しいな……はりぼての戦闘機だが」

 羽人として生まれながら、榊は空を飛ぶことを許されない。幼い頃から、黒髪でつくったかつらで銀の髪を隠さなければ、紗を被って青の瞳を誤魔化さなければ、外へ出ることも認められなかった。理由を尋ねたとき、おとなは言った。「貴女は帝の一族だから」と。何故? ますますわけがわからなくなって問いを重ねても、おとなは顔をしかめるだけ。榊は諦めた。ただ自分は羽人として生まれてはならなかったのだろうと、薄暗く思った。

 勧められた椅子に腰をおろし、榊は二、三度、軽く足を交互に遊ばせた。

「実験の進み具合は、どうだ?」

「順調ですよ。来春には、試験的に戦場へ投入できるかと」

「そうか。いよいよなのだな。費用は足りているか?」

「帝の優遇の恩恵を受けていますから」

 にこりと白く、柊は微笑んだ。

「帝か」

 榊は自嘲気味にわらった。ゆらしていた足を止め、椅子についた手を拳のかたちに結んだ。

「弟が産まれるまでの、かりそめの帝だがな」

 低く抑えた声で、榊は呟くように言葉をおとす。

「わらわは、おとなの考えることがよくわからぬ。わらわがこどもだからだろうか。方舟の未来のためにと豪語しながら、未来の貯えを今に回してでも己が老いて死ぬまでの享楽を保つことしか頭にないように思える者が多すぎるように感じてならないのだ」

 堰を切ったように、言葉が溢れた。この数か月、榊がずっと心に抱えていたことだった。

「こどもは方舟の未来をになう宝だと、だから保護するべきだと、おとなたちは言う。だが、おとなたちがこどもにしていることの多くは、その言葉とは裏腹のことのように思えてならないのだ。わらわの目がおかしいのだろうか。わらわの心がよこしまなのだろうか」

 それは、柊に向けた問いかけではなかった。ただ床にばらばらとかれて消えていく、宛て先の無い、自問だった。

「保護と支配を履き違えたおとなが多いのは事実でしょう」

 柊はただ、静かに答えた。俯いていた榊の顔が、ゆらりと、柊の方へと上がる。

「そなたは、不思議な男だな。おとななのに、おとなと話している気がしない」

 だからつい、訪れてしまうのだろうな。

「こどものままでいそこねただけの、おとなの成り損ないなのかもしれないですね」

 柊は穏やかに微笑んで、榊に小さな茶器を差し出した。ふわりと立つ湯気からは、すっきりと涼やかな薬草の匂いがした。

「……そなたの貴重な時間を、無駄にさせてすまなかった」

「今更ですよ。それに私がこの程度の時間、削られたところで、さわりの出るような人間だとでも?」

「……かたじけない」

 茶器を両手で包み、榊はそうっと唇を寄せた。香りから想像していたよりも、甘く、まろやかな薬湯だった。

「ひとつだけ伝えさせてくれ、柊。社の内部に、そなたの研究を快く思っていない者がいるのは、知っているな」

「ええ」

「その者たちが最近、集まって何かをくわだてているようなのだ。わらわも気を配ってみているが、そなたも、足をすくわれぬよう、気をつけてくれ」

 まさに柊の最も嫌悪する、愚かで、くだらなくて、いちばん時間や心をきたくない事項だろうと、榊は心苦しく思った。せめて自分が男であったなら、ずっと帝として柊を守ることもできたかもしれないのに。

「御忠告、感謝しますよ」

 榊の心をんだのか、柊は微笑を崩さなかった。

 必要なものがあったら何でも遠慮なく言ってくれと、最後に榊は言い残して、研究室をあとにした。別れの言葉とともに、扉はすぐに閉められた。榊も振り返らなかった。ただ、茶器を返すときに触れた柊の手の温度が、じんじんと焼けつくように指に残って、消えない。

(嫌だ……)

 両手を体の両側で握り込む。かたく、かたく、拳をつくる。

(わらわの心は、なんてくだらない。なんて脆弱で、なんて醜い)

 思いつく限りの言葉で自分を罵倒しながら、榊は歩調を速め、やがて走った。長い廊下を駆け抜けながら、榊はひたすらに、柊の実験が成功した暁の未来を夢想していた。

 柊の研究が実用化されれば、羽人は誰も飛ばなくてよくなる。羽人として生まれたこどもも、普通の人間に生まれたこどもも、等しく安全な方舟で、等しくおとなになることができる。

 そう、羽人として生まれた全てのこどもが、空を飛ぶことを叶えられないまま、普通の人間と同じように、方舟に縫いとめられて生きて、おとなになるのだ。等しく。自分のように。

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