第十四話

 煙を満たしたように一様にくすんだ夕刻の空は、早くも冬の色に沈んでいた。かげる陽。部屋に押し寄せる薄闇は、あらゆる精彩を落とし、輪郭を曖昧に滲ませていく。

 かるく目を伏せて、睡蓮の体に灯りはじめた熱のひとひらに触れる。しっとりとやわらかい、まだ紅をひいていない睡蓮の唇は、桃の花弁みたいだった。かるく重ねて、いちど離れて、瞳と瞳で確かめ合う。微かな吐息とともに、ちいさな桃の蕾がほころぶ。頷くように、招くように。

 わたしは応じた。深く、ふかく、白い砦をくぐって、いた林檎のように滑らかな睡蓮の舌に辿りつく。先端に触れると、睡蓮は小さく肩を跳ねさせて、喉の奥にそれを引っ込めた。正しい反射だ。わたしは待つ。おいで、睡蓮。わたしはいざなう。そろそろと、睡蓮の舌が戻ってくる。喉の奥で、わたしは微笑む。睡蓮の頭を、くるむように支えて、ひといきに絡めて、強く吸った。睡蓮が、ぎゅっと目をつむる気配がした。わたしの中で懸命に踊る小さな舌は、わたしに追いつこうと必死だった。けなげだった。そっと放すと、睡蓮は、はあっと息をついて、左手で胸もとをおさえて俯いた。右手は、わたしの袖を、すがるように握りしめていた。刹那、呼吸を整えて、わたしを見上げた睡蓮の頬は、ぱっとひらいた山茶花さざんかみたいに赤かった。光を湛えた瞳は、黒曜石のように潤んでいた。再び重なる二対の花弁。わたしの頬に、ふわりと睡蓮の左手が触れる。引き寄せられて、じわりと熱が滲む。密になる。求めるように、ねだるように。混じる温度。ぎゅっと強く蜜を吸われて、わたしの体の芯がうずく。うれしいとささやくように。そう、うれしいの。求められることが、ねだられることが、わたしはこんなにも、うれしい。与えたい。教えたい。わたしのすべてを、なにもかもを。

 唇を唇で塞ぎ合ったまま、わたしは頬に添えられた睡蓮の左手に、自分の右手をひらりと重ねた。ゆるゆると握って、わたしは睡蓮の指先を、えりの狭間に導いた。左の胸、ちょうど心臓の真上に、そして、そこからつづく、花のあかしのひとつに。

 喉の奥で、ふっと睡蓮の吐息がゆれた。微かに響く水の音。重ねていた唇が離れる。わたしの袖を握りしめていた睡蓮の右手が、わたしの左手をとる。導く。鏡のように、睡蓮のえりもとへ。


――咲かせて。


 声をもたない、吐息が紡いだ言葉だった。張りつめた箏の絃のように震えた囁きは、ひとたび弾けば、甘く切ない花の香が、音の代わりに、ぱっと空気に散るのではないかと思えた。

 綺麗だった。可憐だった。いとしかった。わたしを、まっすぐにみつめる濡れた睡蓮の双眸は、縋るような切なさを湛えていた。体すべてをわたしに委ねて、心すべてをわたしに宛てて、睡蓮は求めていた。わたしを、求めてくれていた。

 わたしの中で、なにかが、ふっと、ひらくのを感じた。

 淡い影が波を描く、水面みなもに似た布団の上。組み敷いた睡蓮の黒髪が、ぱっと、扇のように広がった。伸ばされる華奢な腕。睡蓮のあたたかな指が、わたしの髪を徐にほどく。まっすぐなわたしの黒髪は、するりと肩を流れ、すだれのように睡蓮を囲った。

 わたしの左手の下、細いあばらの向こうで、睡蓮の心臓はことことと温もりを生んでいた。僅かに膨らみかけたばかりの睡蓮の胸は、いつか次の命をはぐくめる胸だ。そっと撫でた。衿を割って、ぴんと尖った蕾の先にくちづける。睡蓮の喉から、ひう、と掠れた吐息が零れた。舌先で弄び、吸い上げる。あたたかい。睡蓮はあたたかい。ぎゅっと抱きしめる。なんだか泣きたいような、微笑みたいような、不思議な気持ちがした。

「可笑しいね。おとなのまねごとをしているはずなのに、なんだか、ちいさいこどもに戻ったみたい」

 ぬくもりを求めて、心音に安堵して。

「こどもになりあう、あそびかしらね」

 顔を上げて、わたしは微笑む。わたしを見下ろす睡蓮のまなざしに、わたしと同じ色が浮かぶ。繋ぎ合った右手と左手。どちらからともなく、そっと力をこめる。片手は結ったまま、もう片方の手は、睡蓮の帯の下、閉ざされた狭間の影に。

 命の在処ありかに、そっと触れる。とろりと潤い、わたしの指を拒むことなく包み込む、睡蓮のゆりかごは、途方もない、あたたかさだけが宿っていた。なにもかもがあたたかかった。睡蓮の体に、ぬくもりのない場所なんてなかった。指先からつまさきまで、命で溢れていた。とくとくと速まる鼓動に、睡蓮の白い胸が、桜色に染まっていく。頬を重ねて、耳をつけた。睡蓮の両腕が、わたしを抱きしめる。強く、つよく。もっと、ねだって。もっと、もっと、わたしに、与えさせて。わたしをほしがって。わたしを、どうか、必要として。

 わたしの体は、未来を宿さない。未来を結ばない。

 こわかった。でも、それ以上に、さみしくてたまらなかった。わたしの命は、きっとこの冬を越えられない。それを悟ったとき、わたしは、自分の抱く気持ちを恐怖だと思った。けれど、違った。今なら、わかる。

「睡蓮」

 睡蓮の体を奏でながら、わたしは睡蓮の腕の中でささやく。

「死ぬのは、けっして、こわくない。ただ、凄く、すごく……さみしい」

 けれど、睡蓮は、望んでくれた。わたしを、その身に宿すことを、望んでくれた。

「ありがと……」

 指先が、熱の中心に触れる。ほころんだ睡蓮の唇から、破綻した吐息が漏れていく。水底に辿りついた指に、力を込めた。わたしのしるしを刻みつけるように。ぜる熱。睡蓮の体が、びくんと跳ねた。わたしに縋りついていた腕が、ふっと緩む。指を抜いて、わたしは、そうっと体を起こした。睡蓮のまなじりが、きらきらと濡れていた。そっと撫でたわたしの指のそばに、ぱたたっ、と透明な雫が滴った。わたしの涙だった。睡蓮も、わたしも、泣いていた。零れ落ちたわたしの涙が、睡蓮の頬の上で、睡蓮の涙ととけあって、一緒に伝い流れ落ちていく。

 ひたひたと満ちる淵のような夕闇の中、わたしたちはさいごに、もういちどだけ唇を重ねた。互いに宛てた、ありがとうのくちづけは、あたたかい涙の味がした。

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