第二十話

 方舟の冬は長い。吹雪こそ避けて飛んではいるけれど、雲の覆いの外には出られない以上、南に進路をとるにも限界があった。凍てつく空気は硝子の刃のようにがれ、吹きつける風は肌を切り裂くように鋭い。

 ぴんと張り詰めた冷たい大気の中、方舟は、じっと春を待つ。孤独をまぬがれた人々は寄り添って、枯れずに残った草木は新芽をはぐくみながら。

 昼を少しまわった頃だった。雲の様子を探査する任務を終え、寮へと戻った鴎は、露台に置いた植木鉢の、葉を落としたこずえの先をはさんでいた。

 戸を叩く音に、鴎は手を止めた。演習場からの使いだった。今すぐ来るようにという命令。鴎は特に眉を寄せることもなく頷いた。

 心はいでいた。もうずっと、鴎の胸に、細波さざなみは立たない。震えない。何か弦のようなものが焼き切れてしまったみたいに、静かだった。たったひとつの願いを、叶えつづけるための器。それが、この体だった。

(きっと、あの子も……)

 使いの後につづいて歩きながら、鴎は空を見上げた。

 この右目に空を映しつづけていられるのなら、この体を空に舞わせつづけていられるのなら、ぼくは、いくらだって飛べる。いくらだって、たたかえる。



*



「新しく入った戦闘機候補、見た?」

「見た見た。超別嬪。もともと《花籠》に居たって噂だけど、本当なんかね」

「いやいや、羽人なら《籠》には売られないだろ。まあ、見た目としては戦闘機ですって言われるより《花籠》の花ですって言われたほうがずっとしっくりくる顔ではあるけど」

「全く、どんな畑にどんな種を仕込んだら、あんな綺麗な花が生まれるのかねえ」

「ばか、昼間から何言ってんだ」

「花籠かあ……小見世しか行ったことねえなあ……一度で良いから彼岸の楼に行ってみたいもんだぜ」

「彼岸?」

「知らねえの? 楼の前に水路があって、朱色の橋が架かっているんだよ。橋を渡らないと入れないから、彼岸。大見世中の大見世。社の上層部、御用達の楼さ。先月、燃えちまったけど」

「可愛い花がたくさんいただろうになあ……もったいねえ」

「でも、すぐに再建されるだろうし、花も補充されるだろ」

 度重なる増築で複雑に入り組んだ演習場の廊下。がやがやと下卑た会話を交わす、下級の師範とすれ違った。午前の演習が終わってちいさなこどもたちが帰った今、気を緩めていたのだろう。角を曲がったところで鴎の姿をみとめた彼らは、慌てて口をつぐんでいたけれど、鴎は一瞥いちべつを投げることもなく、淡々と行き過ぎた。

 演習場の最奥、二重三重に柵を設けた特別区画に入っていく。監視室の扉を、鴎は叩いた。

「お呼びですか」

「ああ。突然呼びつけてすまない」

 扉をあけたのは、上級師範のひとりだった。部屋の奥には、柊の姿もあった。鴎を振り返り、薄く微笑む。

「待っていたよ」

 そう言って、柊は視線で硝子窓の先、鉄柵の向こうを示す。

 いつかの少女が、訓練機を相手に飛んでいた。繰り出される触手を、ひらりとかわして、まっすぐにふところに飛び込む。次、もう一機、長い尾が少女の肩を掠める。ほとばしる血にいささかもひるむことなく、さらに速度を上げて突っ込み、核を貫く。この間、僅か、数秒。

「どう思う?」

「はやいですね」

 二重の意味を含めて、鴎は答えた。隣で師範も頷く。

「普通の羽人が半年かけて習得するところを、たった一月で、身につけてしまった。加えて、あの速さだ。速さだけなら、鴎、君に匹敵する水準ではないだろうかと思う。我々師範としては、早急に、実戦に投入してみたい……いや、投入させてやりたいところだ。正直、空を見据える彼女の眼には……薄ら寒いものを感じることがある」

 空へと解き放つ。望むままに《かみさま》をほふらせてやるために。

「……けれど、容易たやすく失うわけにはいかない」

 大事な検体だからね、と柊が微笑む。

「だから、鴎、君の出番というわけだ。彼女を戦闘機見習いとして、しばらく君につかせたい」

 彼女がもつ羽人の力がどれ程のものなのか見定めるとともに、もし《かみさま》にうたれたときは、検体として、彼女の死体を持ち帰ること。

「君なら、そう易々やすやすと《かみさま》にやられることはないだろうからね」

 それに、と柊は薄い笑みを深めた。

「彼女を簡単に死なせたくないのは、君も同じではないかな」

「……わかりました」

 淡々とした表情を変えないまま、鴎は頷いた。鉄柵の中へとつづく扉に手をかけながら。

「では、彼女に、すこし挨拶をしてきても良いですか」



 かたん、と鉄柵の一部がひらいて訓練機の代わりに躍り出た鴎の姿に、少女の凪いだ瞳が、僅かに瞬きを打った。冷やかな無表情は揺らがない少女に、鴎は微笑を返して、静かに言う。

「きみは、たしかに速い。でも、力はまだ不安定だ。風の使い方を、もっと覚えたほうがいい。複数の《かみさま》を同時に相手にするとき、速さだけでは太刀打ちできないから」

 いつかのぼくが、うたれたように。

 少女と同じ高さまで上がって、鴎は右手に掲げた一枚の木の葉をひらりと振った。背中の刀は抜かないまま。

「この葉を、かみさまの核だと思って、ぼくにかかっておいで」

 瞬きをひとつ数えた後、少女の青い瞳が、すうっと鴎を見据えた。ぴりぴりとさざめく肌。鴎は薄く笑みを浮かべた。師範の言葉を思い出す。師範相手にも、彼女はきっと、こうだったのだろう。師範の先に、訓練機の先に、鴎の先に、彼女はただひとつ、屠るべき《かみさま》だけを見据えている。

 少女が空を蹴った。風を切る音が耳を掠める。繰り出される刃を難なく避けて、鴎は左の掌を、少女の前に掲げた。

 ふわり。

 やわらかな風が少女を包む。けれどそれは一瞬で、渦を巻き突風へと姿を変え、小柄な少女の体をねた。そのまま鉄柵に叩きつける。いささかの躊躇ちゅうちょも容赦もなく。

 よろめき墜落しかけた体を危うく支え、少女は軽く咳き込みながら鴎を見上げた。瞳が微かに、驚きと途惑いに揺れていた。少女を見下ろして、鴎は静かに言い放つ。

「単に風をまとって自分の体を飛ばすことだけが、風の使い方じゃない。こんなふうに、相手をはじくこともできるんだ。風の盾って、ぼくは呼んでいるけれど」

 もう一度、おいで。そんなんじゃ、かみさまはたおせないよ。

 鴎を見上げて、少女は唇を引き結んだ。刀を構えなおして、再び挑む。まとう風を、鴎にぶつけて。

「そう。その調子。でも、まだ甘いよ」

 ひらりと身をひるがえして、今度は背中から少女を弾く。鉄柵の軋む音が場内に響く。師範のいさめる声がした。構わずに続ける。何度も、何度でも。少女は挑む。かみさまとたたかえるのなら、どんな関門だって、越えてみせる。鴎の右手を少女は睨んだ。風の盾……風の渦、突風……相殺?

 空を蹴る。左手の先に風を紡ぐ。鴎が紡ぐ渦と、逆の渦を。かわす間をつくらせる前に、少女は左手の風を鴎にぶつけた。反動で煽られそうになる体。踏みとどまって、刀を突き出す。鴎が微かに頷く気配がした。ふっ、と刹那、風が止む。少女の刃が、鴎の右手に摘ままれた葉の真ん中を、貫いていた。鴎の手を、些かも傷つけることなく。

 鴎は微笑を浮かべた。摘まんでいた葉を、ひらりと放して、そのまま右手を少女に差し出す。

「久し振り。自己紹介をするのは初めてだね。ぼくは鴎。さっき、きみと組むことが決まった、戦闘機だ」

 きみの、今の、名前は?

「わたしは……つばめ

 上がった息をととのえながら、少女は刀を鞘におさめ、鴎の右手に自分のそれを伸ばした。華奢な白い手だった。けれど、肉刺まめだらけの、ずたずたの掌だった。指先も爪が剥がれかけて、血が滲んでいた。何も知らない人間が見たら、とても少女の手とは思えないだろう、ぼろぼろの手だった。

「ここから、出られるの?」

 やっと、空を、飛べるの?

「うん。飛べるよ」

 みつめる少女の瞳を、まっすぐに受けとめて、鴎は頷いた。少女は唇を引き結び、目を伏せる。声が、かすかに震えた。

「戦闘機に、なれるの?」

 かみさまと、たたかわせてくれるの?

「うん。きみの、望みのままに」

 鴎は微笑む。鴎の手の中で、少女の手に、力がこもる。

 やっと、飛べる。

 やっと、たたかえる。

 やっと、この体の、需要が得られる。

「よろしく、燕」

「ええ……よろしく」



*



「本当に良かったのか? 柊」

 監視室の扉にもたれて、榊が静かに問いかけた。先刻、師範と鴎が部屋を出ていくのを見計らったように、榊は訪れた。飛び交う鴎と燕が動きを止めるまで、榊は何も言わず、ただじっと柵の向こうをみつめていた。

「鴎につかせたところで、あの娘を失わない保障は無いだろう」

 貴重な検体ではなかったのか、と榊は眉を寄せた。雲の上に、安全な場所など無いというのに。

「ええ。私は、きっと、甘いのでしょう」

 肩をすくめて、柊は笑った。数か月前にみかどになった榊は、鴎も燕と同様に、長く経過を観察すべき貴重な検体であることを知らない。

 榊は一瞬、横目で柊を睨み、唇を噛んで俯いた。

「……あのまま診療棟に閉じ込めておいたら、あの娘は衰弱死していた、と?」

「間違いなく」

 柊の返答に、榊は僅かに口の端に笑みを浮かべた。再び顔を上げ、柵の向こうをみつめる。

「……おのれを突き動かす激情は、己を生かすのだな」

 だがそれは、いつか身を滅ぼすのではないか?

「あるいは、それこそが望みか」

 柊は腰を上げた。榊に並んで、柵の向こうを眺める。

「鴎以来の、とてつもない才能だと、言われているらしいな」

「ええ、でも……」

 頷く柊はそこで一度言葉を切り、笑みを深めて、つづけた。

「才能、なんて言葉で、彼女の努力を軽んじるべきではないでしょうね」

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