第二十一話

 雲の覆いを抜ければ、そこは青の世界だった。

 頬を切るように吹き荒ぶ風。混じりものの無い、澄みきった大気。矢のように鋭く、まっすぐに降り注ぐ、陽の光と熱。

 空気が、薄い。呼吸も鼓動も、自然と速くなる。かじかむ指先。方舟の中とは比べものにならない、一切の温度を削ぎ落としていくような冷たさと、何にも遮られない強い光。汚れも濁りも全て拭い去るような、果てしない、透明な青が広がっている。

 これが、空……。

 前を飛ぶ鴎に続いて高度を上げながら、燕は唇を引き結んだ。吸い込まれそうな、青。このまま、とけて消えていきそう。

 鴎が上昇を止めた。追いついて、燕も鴎の隣に浮かぶ。

 不思議な男の子だ、と燕はぼんやりと思った。春の風のように穏やかな爽やかさを帯びながら、しんしんと降る雪のように静かな冷やかさも宿している。それに、瞳……銀のまつげが縁取る鴎の眼は、左右で瞳の色が違う。左眼は、燕と同じ、今ここに広がる空をそのまま嵌めこんだような澄んだ青をしている一方、右眼は、いつかみた星空のように、どこまでも深く黒々と透きとおっている……姉様と同じ瞳。

「燕」

 すっと、白い指先で、鴎は彼方を示した。

「あの一帯だけ、雲が一際、薄くなってる。もし通ってしまったら、その方舟は《かみさま》の格好の標的にされてしまう。それから、すこし左の、あそこ。雲の色が違うだろう? あの下は、おそらく激しい吹雪だ。避ける進路をとるように、帰ったら報告しないとね。方角を、よく覚えておくんだ」

 軽い口調で、鴎は言った。雲の動向を見定める任務だった。どこまでも続く雲海。所々渦を巻き、ゆるやかなうねをつくり、重なり合って影をおとしては、突如、ぽっかりと黒く地上へと口をあける。

「雲をこんなふうに上から見たのなんて初めて……」

 雲にもいろんな表情があるのね、と燕は吐息とともに呟いた。今まで、濃淡こそあれ、坦々と広がり方舟を隠す傘となる雲を見上げたことしかなかった。

「そうだね。それから……」

 くすりと笑って、鴎は視線で頭上を示した。ぴりりと空気に緊張が走る。

「ほら、お出ましだ」

 はるか彼方、一面の青の中に、染みのように現れた黒い点。じわりと滲むように、それは次第に大きくなり、輪郭を露わにしていく。

「わたしに行かせて」

「了解」

 こちらをめがけて降下する黒い影を見据えて、燕は、すっと刀を抜いた。息を溜める。燕のまとう風が、鋭さを増す。

 いちど軽く身を屈めて、燕は強く風を蹴った。

 図鑑に載っている百足むかでという古代生物に似た、巨大な長いからだと無数の足をもつ《かみさま》。けれど百足とは違い、全身が、貝を貼りつけたような白いうろこに覆われていた。大きな鎌が八つ、等間隔に生えている。尾には鋭く長いとげがあった。

 鎌が振り下ろされる。陽の光を弾いて白く閃く死の刃。かわして、核の在処ありかを探る。くるりと円を描くように《かみさま》の体がくねる。繰り出される尾。避けた先に掠める鎌。すり抜けて、体を反転。鎌が邪魔だ。斬りおとす。割れた鱗が散ってきらきらと輝く。再び宙返り。《かみさま》の真上に位置をとる。まとう風を、ふっと解いて、掲げた左手の先に風の渦をつくる。鴎が教えてくれたのを、見様見真似みようみまねで覚えた技。旋風つむじかぜ。引力さえ利用して、燕は突っ込む。待ち受ける尾の槍。かいくぐって、根元からってやる。つづいて両側から鎌。片方は刀で、もう片方は左手の風でいなす。弾くだけの風力は、まだ生めない。二の腕を掠めた鎌が袖を裂き、ぱっと鮮やかな紅が数滴、白い鱗に散る。構わずに肉薄する。核はまだ見えない。どこ。目を凝らす。鱗の狭間から僅かに漏れる、青い光を見つけた。頭部に近い、鎌の付け根。右手の刀に左手を添える。両手で握って、速度を上げる。後ろから鎌。斬りおとすか、このまま進むか、一瞥して判断。迷いは油断だ。即座に無視を選択。速度を落としたくない。追いつかれる前に片をつける。歯を食いしばり、鱗の狭間、青い光の源に、渾身こんしんの力で刃を埋めた。掌から腕へと伝う、鈍い感触。きん、と澄んだ音が響いた気がした。瞬間、ぼろぼろと鱗が一斉に剥がれ落ち、どろどろと黒い粘性の液体が中から漏れ、流れ出ていく。ずるりと抜ける刃。《かみさま》の躯が融けていく。雲の下へ、まっさかさまに墜ちていく。

 止めていた息を、はあっと吐いた。《かみさま》の消えた足もとを見下ろしながら、空気を求める体をなだめる。やがて、整いゆく呼吸の中から、ふっと色を帯びた声が零れた。胸の奥から溢れ、吹き上がり、喉を奏でた、それは、笑い声だった。

 抜き身の刀を握りしめ、肩を震わせて、燕は笑った。きゃらきゃらと壊れたからくり人形のように、ひとしきり声を立てて、笑いつづけた。



*



「この程度の掠り傷、放っておいても治るのに」

 甲板に程近い、簡易救護所。腕に包帯を巻かれた燕は、扉の外で待っていた鴎に、心なしかきまり悪そうに視線を外して、くぐもった声で呟くように言った。鴎は特に気にした風もなく、燕に合わせて歩調をゆるめた。社へとつづく長い渡り廊下を、並んで歩いていく。

「かみさまの中には、爪や牙に毒をもつたぐいのものもいるからね、傷が小さいからって、油断は禁物だよ」

「毒……」

 燕がことりと首を傾けて鴎を見上げた。少しの沈黙を経て、燕は再び廊下の先をみつめて呟く。

「……いつか、白い炎を吐くかみさまに、相見あいまみえることはできるかしら」

 あなたは相対したことある? と尋ねた燕に、鴎は、ふっと瞳を伏せて、ぽつりと雫を一滴おとすように答えた。

「……たたかったことはないよ」

「おっ、鴎じゃないか」

 枝分かれした渡り廊下の一角にさしかかったときだった。ひとりの若い男が、廊下を横切ったところで足を止めて振り返り、人好きのする明るい笑顔を浮かべた。せた藍色の作務衣に、所々綿のはみ出したはんてんを羽織っている。社のふもとを歩くには、いささか無造作すぎるいでたちだった。

「ちょうど良いところへ通りかかってくれたよ。なっ、ちょっとだけ、工房に寄っていってくれないか。五分で良いからさ。見せたいものがあるんだ。そっちの女の子も一緒に。是非!」

 にこにこと幼さの残る笑みを咲かせて、鴎に駆け寄った男は、ぐいぐいと鴎の腕を掴んで引いた。

「また何か、発明を?」

「この前見せたやつの進化形さ」

 苦笑混じりに尋ねた鴎に、男は悪戯っぽく片目をつむった。仕草だけみれば、どちらがこどもか分からない。半ば引きずられながら振り向いた鴎は、少し困ったような、それでもどこか楽しむような笑みを浮かべて、きょとんとたたずむ燕に一緒に来るよう瞳で手招いた。

「ごめん、燕。少しだけ、良いかな」



 ほむらと名乗った男は、刀をきたえる仕事をしているひとだった。渡り廊下を折れて、少し進んだ先、社のいわゆるおひざもとに広がる建物群の一角に彼の工房はあった。古びたやき煉瓦れんがの壁と柱が、すすけた木組みの天井を支えている。

「来てくれて嬉しいよ。女の子のお客さんは嬢ちゃんが初めてだ」

 どうぞお入りなんせ、と、わざとかしこまった、芝居めいたお辞儀をして、焔は作業場に隣接する私室の木戸をひらいた。小さな囲炉裏と、いくつも焦げ穴のあいた座布団。押し入れの手前には、無造作に畳んだ一組の布団。それだけが目につく、こぢんまりとした部屋だった。遠く近く、刀を鍛える音が壁の向こうから聞こえてくる。

 奥の壁には、小さな丸い穴がいくつもあいた分厚い鉄板が、何枚も重ねて立てかけられていた。

「これだよ」

 奥から戻ってきた焔は、鉄のつつを木で包んだような、奇妙な長いものを両腕で抱えていた。

「前に鴎に見せたときより、大分、改良したんだぜ」

 ごとりと鈍い音を立てて、それは床に置かれた。みるからに重そうな筒だった。

「これは、何……?」

 初めて目にする物に、燕はぱちぱちと瞬きをした。あぐらを組み直して、ふふんと焔が鼻を鳴らす。

「銃だよ」

「じゅう?」

 聴き慣れない単語に、燕は首をかしげて眉を寄せた。にやりと焔の笑みが深くなる。

「そう。まだ誰も具現化できていない、旧文明の遺産さ」

 見てな、と焔はたもとから麻の袋を取り出した。中には黒い鉛の玉がごろごろと詰め込まれている。そのうちの一つを手に取り、焔は銃と名付けた鉄の筒に、それを込めた。つづいて細い縄に火をつけ、筒を、壁の分厚い鉄板に向ける。ふわりと微かに、卵が腐ったような、鼻をつく臭いがした。

「耳、塞いどきな」

 言われるがまま咄嗟とっさに両耳に手を遣った瞬間、どん、と体の中心を震わせるような重く鈍い音がびりびりと空気を震わせた。瞬きひとつ数える間もなく、筒から放たれた鉛のつぶては、分厚い鉄板を貫き、更に奥の鉄板を凹ませ、ごろりと床に転がった。

はやい……!」

 半ば茫然と、燕は呟いた。立ち込める煙にとけた強い臭いに、少し咳き込みながら。そんな燕の反応に満足したらしい焔が、自慢げに軽く口笛を吹きながら振り向く。

「これなら、今よりもっと《かみさま》にまされると思うんだ」

「でも、重すぎる」

 手渡された〝銃〟を持ち上げながら、鴎が冷静に呟いた。

「確かに、この武器は高速で、強力だと思います。刀とは比べものにならない。でも、これだけの重さを抱えて飛べば、肝心の羽人の俊敏さが、はばまれてしまう」

 それでは、かみさまに到底、かなわない。

「たしかに……これを持って走れって言われてもきついくらいだもんなあ……飛べってなると、なおさらだ」

 痛いところを突かれた、という渋い表情で、焔が肩を竦める。

「せめて、片手で持てるくらい軽ければ……それに、点火から弾丸の発射までの時間の長さも気になります。今の状態だと、刀をもって飛び込んだ方が、余程、速いです」

「そうかあ……かみさまって、でかいくせに敏捷びんしょうなんだなあ」

 苦笑いを浮かべて焔は溜息をつき、頭をかいた。思わず言葉に熱が入りすぎていたことに気がついた鴎は、視線をおとし、ぺこりと頭を下げる。

「すみません。偉そうに言いすぎました」

「いやいや、それだけ真剣にみてくれて、はっきり言ってくれるほうが嬉しいよ。実際、かみさまがどんなものなのか、俺たち普通の人間にとっては、想像するしかないからな」

 ばしんと鴎の背中を叩いてあっけらかんと笑う焔に、燕は、不思議そうな面持ちで尋ねた。

「あの……ふたりは、どういう……?」

「ん? ああ、きっかけは何てことない。試作段階で置いていたのを、刀の修理を頼みに来た鴎が見つけてさ。普通だったらがらくた扱いされて終わるところを、いろいろ尋ねてくれて、話をきいてくれてさ。こうして意気投合したってわけ」

「他の人に知られても平気なの……?」

「平気平気。俺の実験好きは、漆剥げても生地は剥げぬでさ、がきの頃からあれこれやっていたから、今更、何をしようと、また何かやってやがるな、あの野郎って、気にも留められてないよ」

 だけどな、と焔はそこで急に声をひそめた。

「いつか、実用化できる段階になったら、社に売り込むつもりだよ。これ、俺の野望ね」

 唇の手前にひとさし指を立てて、焔はにやりと笑ってみせた。

「課題は軽量化と速度の向上かあ……天才の血が騒ぐぜ」

「天才?」

「そう、天才。俺の心の好敵手は、あの柊だから」

 柊。急に聞き覚えのある名前が飛び出してきて、燕は思わず瞬きをした。口の端の笑みを深めて、焔はつづける。

「医学、薬学、生物学……あらゆる分野で、今、最も旧文明を紐解ひもとく才をもつって言われてるんだろ。社の抱える研究機関の頂点に立つ男だってさ。いつか俺、柊の隣に並んでやるんだ。この銃で。柊が、訓練機の開発で下賜かしを与えられたみたいに」

 また来てくれよな、と笑って、焔はひらりと手を振った。

 光のほうへ顔を上げて咲く向日葵ひまわりみたいな人だと、手を振り返しながら燕は思った。

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