第二十一話
雲の覆いを抜ければ、そこは青の世界だった。
頬を切るように吹き荒ぶ風。混じりものの無い、澄みきった大気。矢のように鋭く、まっすぐに降り注ぐ、陽の光と熱。
空気が、薄い。呼吸も鼓動も、自然と速くなる。
これが、空……。
前を飛ぶ鴎に続いて高度を上げながら、燕は唇を引き結んだ。吸い込まれそうな、青。このまま、とけて消えていきそう。
鴎が上昇を止めた。追いついて、燕も鴎の隣に浮かぶ。
不思議な男の子だ、と燕はぼんやりと思った。春の風のように穏やかな爽やかさを帯びながら、しんしんと降る雪のように静かな冷やかさも宿している。それに、瞳……銀の
「燕」
すっと、白い指先で、鴎は彼方を示した。
「あの一帯だけ、雲が一際、薄くなってる。もし通ってしまったら、その方舟は《かみさま》の格好の標的にされてしまう。それから、すこし左の、あそこ。雲の色が違うだろう? あの下は、おそらく激しい吹雪だ。避ける進路をとるように、帰ったら報告しないとね。方角を、よく覚えておくんだ」
軽い口調で、鴎は言った。雲の動向を見定める任務だった。どこまでも続く雲海。所々渦を巻き、ゆるやかな
「雲をこんなふうに上から見たのなんて初めて……」
雲にもいろんな表情があるのね、と燕は吐息とともに呟いた。今まで、濃淡こそあれ、坦々と広がり方舟を隠す傘となる雲を見上げたことしかなかった。
「そうだね。それから……」
くすりと笑って、鴎は視線で頭上を示した。ぴりりと空気に緊張が走る。
「ほら、お出ましだ」
はるか彼方、一面の青の中に、染みのように現れた黒い点。じわりと滲むように、それは次第に大きくなり、輪郭を露わにしていく。
「わたしに行かせて」
「了解」
こちらをめがけて降下する黒い影を見据えて、燕は、すっと刀を抜いた。息を溜める。燕のまとう風が、鋭さを増す。
いちど軽く身を屈めて、燕は強く風を蹴った。
図鑑に載っている
鎌が振り下ろされる。陽の光を弾いて白く閃く死の刃。かわして、核の
止めていた息を、はあっと吐いた。《かみさま》の消えた足もとを見下ろしながら、空気を求める体を
抜き身の刀を握りしめ、肩を震わせて、燕は笑った。きゃらきゃらと壊れたからくり人形のように、ひとしきり声を立てて、笑いつづけた。
*
「この程度の掠り傷、放っておいても治るのに」
甲板に程近い、簡易救護所。腕に包帯を巻かれた燕は、扉の外で待っていた鴎に、心なしかきまり悪そうに視線を外して、くぐもった声で呟くように言った。鴎は特に気にした風もなく、燕に合わせて歩調をゆるめた。社へとつづく長い渡り廊下を、並んで歩いていく。
「かみさまの中には、爪や牙に毒をもつ
「毒……」
燕がことりと首を傾けて鴎を見上げた。少しの沈黙を経て、燕は再び廊下の先をみつめて呟く。
「……いつか、白い炎を吐くかみさまに、
あなたは相対したことある? と尋ねた燕に、鴎は、ふっと瞳を伏せて、ぽつりと雫を一滴おとすように答えた。
「……たたかったことはないよ」
「おっ、鴎じゃないか」
枝分かれした渡り廊下の一角にさしかかったときだった。ひとりの若い男が、廊下を横切ったところで足を止めて振り返り、人好きのする明るい笑顔を浮かべた。
「ちょうど良いところへ通りかかってくれたよ。なっ、ちょっとだけ、工房に寄っていってくれないか。五分で良いからさ。見せたいものがあるんだ。そっちの女の子も一緒に。是非!」
にこにこと幼さの残る笑みを咲かせて、鴎に駆け寄った男は、ぐいぐいと鴎の腕を掴んで引いた。
「また何か、発明を?」
「この前見せたやつの進化形さ」
苦笑混じりに尋ねた鴎に、男は悪戯っぽく片目をつむった。仕草だけみれば、どちらがこどもか分からない。半ば引きずられながら振り向いた鴎は、少し困ったような、それでもどこか楽しむような笑みを浮かべて、きょとんと
「ごめん、燕。少しだけ、良いかな」
「来てくれて嬉しいよ。女の子のお客さんは嬢ちゃんが初めてだ」
どうぞお入りなんせ、と、わざとかしこまった、芝居めいたお辞儀をして、焔は作業場に隣接する私室の木戸をひらいた。小さな囲炉裏と、いくつも焦げ穴のあいた座布団。押し入れの手前には、無造作に畳んだ一組の布団。それだけが目につく、こぢんまりとした部屋だった。遠く近く、刀を鍛える音が壁の向こうから聞こえてくる。
奥の壁には、小さな丸い穴がいくつもあいた分厚い鉄板が、何枚も重ねて立てかけられていた。
「これだよ」
奥から戻ってきた焔は、鉄の
「前に鴎に見せたときより、大分、改良したんだぜ」
ごとりと鈍い音を立てて、それは床に置かれた。みるからに重そうな筒だった。
「これは、何……?」
初めて目にする物に、燕はぱちぱちと瞬きをした。あぐらを組み直して、ふふんと焔が鼻を鳴らす。
「銃だよ」
「じゅう?」
聴き慣れない単語に、燕は首を
「そう。まだ誰も具現化できていない、旧文明の遺産さ」
見てな、と焔は
「耳、塞いどきな」
言われるがまま
「
半ば茫然と、燕は呟いた。立ち込める煙にとけた強い臭いに、少し咳き込みながら。そんな燕の反応に満足したらしい焔が、自慢げに軽く口笛を吹きながら振り向く。
「これなら、今よりもっと《かみさま》に
「でも、重すぎる」
手渡された〝銃〟を持ち上げながら、鴎が冷静に呟いた。
「確かに、この武器は高速で、強力だと思います。刀とは比べものにならない。でも、これだけの重さを抱えて飛べば、肝心の羽人の俊敏さが、
それでは、かみさまに到底、
「たしかに……これを持って走れって言われてもきついくらいだもんなあ……飛べってなると、なおさらだ」
痛いところを突かれた、という渋い表情で、焔が肩を竦める。
「せめて、片手で持てるくらい軽ければ……それに、点火から弾丸の発射までの時間の長さも気になります。今の状態だと、刀をもって飛び込んだ方が、余程、速いです」
「そうかあ……かみさまって、でかいくせに
苦笑いを浮かべて焔は溜息をつき、頭をかいた。思わず言葉に熱が入りすぎていたことに気がついた鴎は、視線をおとし、ぺこりと頭を下げる。
「すみません。偉そうに言いすぎました」
「いやいや、それだけ真剣にみてくれて、はっきり言ってくれるほうが嬉しいよ。実際、かみさまがどんなものなのか、俺たち普通の人間にとっては、想像するしかないからな」
ばしんと鴎の背中を叩いてあっけらかんと笑う焔に、燕は、不思議そうな面持ちで尋ねた。
「あの……ふたりは、どういう……?」
「ん? ああ、きっかけは何てことない。試作段階で置いていたのを、刀の修理を頼みに来た鴎が見つけてさ。普通だったらがらくた扱いされて終わるところを、いろいろ尋ねてくれて、話をきいてくれてさ。こうして意気投合したってわけ」
「他の人に知られても平気なの……?」
「平気平気。俺の実験好きは、漆剥げても生地は剥げぬでさ、がきの頃からあれこれやっていたから、今更、何をしようと、また何かやってやがるな、あの野郎って、気にも留められてないよ」
だけどな、と焔はそこで急に声をひそめた。
「いつか、実用化できる段階になったら、社に売り込むつもりだよ。これ、俺の野望ね」
唇の手前にひとさし指を立てて、焔はにやりと笑ってみせた。
「課題は軽量化と速度の向上かあ……天才の血が騒ぐぜ」
「天才?」
「そう、天才。俺の心の好敵手は、あの柊だから」
柊。急に聞き覚えのある名前が飛び出してきて、燕は思わず瞬きをした。口の端の笑みを深めて、焔はつづける。
「医学、薬学、生物学……あらゆる分野で、今、最も旧文明を
また来てくれよな、と笑って、焔はひらりと手を振った。
光のほうへ顔を上げて咲く
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