第二十二話

 夜明け前の薄闇の中で、燕は目覚めた。空気が青い。雲の向こうに広がる空の青が、陽が昇る前のほんの数刻だけ、方舟にひっそりと降りているかのようだった。

 もういちど眠る気分にもなれなくて、社から支給された無地の羽織を二枚重ねて、燕は部屋を出た。

 戦闘機や輸送機となる羽人を方舟中から一堂に集め、収容した寮。黒漆こそ塗られていなかったけれど、外部の造りは《籠》に建てられた楼と同じだった。中庭を囲むように線対称につくられた数階建ての建物。ぴたりと閉ざされた格子窓。各部屋に設けられた、狭い、装飾程度のささやかな露台。けれどそこに、赤い提燈ちょうちんは連ならない。ただ冷やかな影が宿っているだけ。

 中庭を挟んで、社からみて左側が男子寮。そして右側が女子寮となっている。男子寮と女子寮をちょうど分断するかたちで、外へとつづく門が社側とその逆側に設けられている。

 あてどなく中庭を歩きながら、無意識に燕の瞳は、桜の木を探していた。この庭に桜は無い。

 中庭のまんなか、黒々と水をたたえる池のほとりで、燕は足を止めた。薄闇の中、視線をおとす燕の姿が、ひたひたと凪いだ水面みなもに映る。

 闇の中に浮かぶ、銀の髪に、青い瞳。いつかみた夢を、思い出していた。

(あなたの望んだ容姿ね、母様。あなたの求めた、わたしがあなたとあなたの愛したひととのあいだに生まれたこどもだという、証明……それがこの体なら、どんな呪いかしら)

 水面に映る体を、冷やかに見下ろす。心は凪いでいた。この水のように、どこまでも深く、くらく。

(呪いで良い。この呪いがわたしに、空を飛ぶ力をくれるのなら。わたしに、罰を、くれるのなら……)

 ふところから、そっと、かんざしを取り出す。つたを模した繊細な銀の細工に包まれた、つるりと丸い、青い石。空をそのまま宿したように、深く、透明な青。黎明れいめいを迎える前の、未だ夜闇の残る影の中で、ぼうっと浮かびあがる、ほのかな光。みつめて、握りしめた両手を祈りのかたちに結んだ。祈る宛て先など、もう、どこにもなかったけれど。

 今日までに飛び立った任務は三十七回。そのうち、かみさまが現れたのは、三十四回。たおしたかみさまの数は、もう数えていない。けれど、白い炎を吐くかみさまは、一柱もいなかった。

 まだ、足りない。とても、足りない。

 この腕は、脚は、まだがれていないじゃないか。この体は、まだかれていないじゃないか。まだ、まだ、まだ。

 あとどれだけ飛べばいいの。あとどれだけたたかえばいいの。あとどれだけころせばいいの。あとどれだけ生きれば、生きれば、生きれば、死んでいいの。


――殺されて、いいの。


「燕……?」

 さく、と枯れた芝生を踏む音がして、燕は振り向いた。濃紺の作務衣に身を包んだ鴎が、ちょうど門から中へと入ってきたところだった。白い息を吐く、呼吸が、こころなしか速い。

「朝の持久走?」

「うん」

 さくさくと芝生を進んで、たたずむ燕からちょうど人ひとり分、挟んだくらいの距離をあけて、鴎は燕の隣にかがんだ。

「綺麗な簪だね」

 顔を上げずに、水面をみつめたまま、鴎は言った。吐く息が、硝子の粉を吹いたように白く舞い、薄闇の中に消えていく。

「燕」

 ふわり。白いかすみにとかすように、鴎は、燕の名前を呼んだ。佇んだまま、燕は瞳を鴎に向ける。鴎の表情は見えない。

「きみは、《かみさま》が、いつから生まれたのか、考えたこと、ある?」

 鴎の問いかけに、燕のまとう空気がゆれた。途惑いのしるし。鴎はつづける。

「圧倒的な力で人々を滅ぼしにかかるあいつに、おとなたちは《かみさま》という名前をつけた。先人の犯した罪に子々孫々罰を与えつづけている執行者だと……これは、ちいさなこどもでも、教わっていることだ。ぼくも、きみも、そう習った」

 だけどね、と鴎は声をひそめた。

「もともと人は地上に棲んでいたのなら、方舟のように移動できない当時の人たちはどうやって《かみさま》の襲撃を防いでいたんだろう。果たして、その頃、《かみさま》っていたのかな。《羽人》は、いたのかな」

「どういう、こと……?」

「燕、きみは〝先人の犯した罪〟って、一体、何なのか、知っている?」

 燕は首を横に振った。ただ知識として、常識として、習っただけで、疑問に思ったこともなかった。おとなたちも、それについては語らなかった。触れなかった。

 鴎は振り向かない。顔は見えない。ただ言葉だけがつづいていく。

「そう……ぼくも知らない。きっと、今この方舟にいるおとなは誰も知らない。おとなも、こどものとき教わっていないから。肝心の引金の部分が伏せられたまま、風化して、忘れられて、ただ無知だけが受け継がれていく」

 滔々とうとうと流れるように紡がれる鴎の言葉に、燕は唇を引き結び、両手をぎゅっと握った。こわい、と思った。鴎の言葉のつづきを聴くのがこわかった。これ以上、聴いてしまったら、自分の中の何かが、揺らいでしまいそうな気がした。ようやく立てていられるこの脚が、震えてしまいそうな気がした。頭の奥を、風が渦を巻くように、問いかけが吹き上がってくる。

 羽人の力は、何のためにあるの。

 羽人は、何のために生まれるの。

 地上が毒におかされたのは何故。

 《かみさま》が人々をほふるのは何故。

 先人は、なにを、しでかしたの。

「…………かみさまを……羽人を……生んだ罪……?」

 燕の唇から、ぽつりと言葉がひとつ落ちた。答えをもたないまま、黒い水底へと沈んでいく。鴎は小さく息をついた。淡く、微笑をとかした吐息だった。腰を上げる。もうすぐ夜明けだ。大気に満ちる青がせはじめている。

「つい話し込んじゃった……混乱させて、ごめん」

「鴎」

 きびすを返した華奢な背中を、燕は呼びとめた。

「あなたは、何を、考えているの……?」

「別に。ただ、ぼくたち羽人の力が、かみさまとたたかう以外にも需要があればいいのにと思うだけ」

 そう言って、鴎は半分だけ振り返り、微かに笑顔をひらいた。それは、触れれば融けて消えていきそうな、雪のように、白く儚い微笑だった。

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