第三話

 夜がせていく。消墨色けしずみいろから灰青色に。ひさしの下、墨を朱で滲ませるように灯されていた赤い提燈ちょうちんは、白みはじめた空を背に、最後の客の出とともに炎を終える。

 しまいの客は二人だった。ふたりとも、ぼくの客で、ふたりでひとりと(つまり、ぼくと)遊ぶのが好きなひとたちだった。一度に相手をするのがひとりでも、ふたりでも、ぼくは別に構わないのだけれど、同じ時間で二人分の遊び金が入るということで、楼主ろうしゅの機嫌は良かった。

 見世みせの前には細い水路が走っていて、玩具のように小さな朱塗りの橋が架けられている。その橋を行き来するのは客だけで、ぼくたち見世の人間がその対岸の土を踏むことはない。墨を流したような闇色の水面みなも。それが映すのは見世のひさしに連なる提燈の緋色ひいろ。ゆらゆらと夜風にそよぎながら、一夜の花を数珠つなぎに咲かせる。夜が明ければ吹き消され、次の夜にはげ替えられる、赤く燃え闇に浮かぶ灯火ともしびの花。

 見世の門の手前まで見送りに出て、ぼくはひらりと右手を振る。このふたりがぼくを指名したのは三度目だ。このままぼくの顧客になるだろう。

 橋の向こう、大通りの人影はまばらだった。黄色い声と赤い光、数多あまたの匂いに満ちた夜の熱気は風にぬぐわれ、場違いなほどに静謐せいひつな朝の青が、ひんやりと街を染めはじめている。

 彼らが通りの角を曲がりきったことを確認して、ぼくはかたわらの女将を振りあおいだ。女将もまた、ぼくを見下ろしていた。互いに、ふっと、空気が緩む。夜が、終わった。この夜も、いつもと、かわりなく、終えられた。

「湯殿はまだ開いている?」

「開いているよ。浴衣も道具も一式用意しておいたから、このまま行きな」

「ありがとう」

 ぼくは小さく微笑みかけた。良いって良いって、と女将は肉厚の大きな掌をひらひらと振り、向日葵ひまわりみたいな笑顔を咲かせた。恰幅かっぷくの良い女将の頭の上で、高く結いあげたまげがゆれる。

「これくらい、お安い御用だよ。あんたは、この見世いちばんの稼ぎ頭なんだから」

 そう、何の含みもなくあっけらかんと言ってのける女将に、ぼくは言葉の代わりに苦笑を返した。女将の言葉に裏はない。まして、悪意もない。けれど、だからこそ、他意のない人間の言葉は真っ直ぐで、余計なとげをもたないぶん、胸の奥深くまで突き刺さるのだろう。

 なんにしても、女将が気を利かせてくれたおかげで、ぼくは、客を送り出したその足で、奥の湯殿へと向かうことができた。正直、今のぼくには、一度自室に戻るための階段を休まずに上がれる自信がなかったから、女将のはからいは幸いといえば幸いだったけれど、女将に悟られるほどに平静を取りつくろえていない自分自身に舌打ちしたくもあった。久々に、余裕がない。普段以上に体を使ったからかもしれない。

 帯に衣、着ていたものすべて洗いかごに放り込む。露わになる白い四肢。奥の鏡が、ぼくの全身を容赦なく映しさらし出していく。やめてよ、と。映さないで、と。刹那、ひと思いに砕いてしまいたい衝動とたたかう。頭と心、無駄ないくさだ。勝敗は決まっている。とっさに作った拳は、叩きつける行方ゆくえを得られないまま、抑えつけた情動とともに、ゆるゆるとほどけていく。鏡の中、佇む、ひらかれきった体。薄闇の中、浮かびあがる、骨をくるむ白い肌の上、点々と体中に散らばった、いびつな歯形と血の集まり。先刻の客ふたりにつけられた、夜のあと。目を逸らして、鏡から視線を引き剥がし、湯殿の扉へ、手を伸ばす。軋む腕。震える脚。全身に刻まれた欲のしるし。構わない。痛みはない。ただ、次の夜までに消えればいいと思う。

 開け放たれた湯殿の窓。炎の消えた提燈ちょうちんが、鬼灯ほおずきのように、微風に揺れる。朝靄あさもやの立ち込める街並みの向こう、そびえるのは、あらゆる法と権力が集積する中央機関《社》の楼閣だ。罪人を裁き、方舟の民を管理し、瑠璃たち《羽人》を束ねる総本部。

 誰もいない湯殿で、熱い湯を頭からかぶった。全身にまといつく、蘇る、生温い掌の、舌の、指の、感触……いっそ、この肌ごと焼いてしまえたらいいのに。

「……う……ぇ……っ」

 なぜだろう。仕事のさなかは平気なのに。いくらだってこなせているのに。何度肌を重ねられても、何度体を拓かれても、おとなの相手をするのは、何度やっても慣れない。

(なんで)

 止まない嘔吐えずきに視界が滲む。吐き出せるものなんて、何もなかった。咽喉のどからはただ、途切れ途切れに空気が漏れるだけ。床についた手を握りこむ。

(なんで、これくらい、なんてこと、ないはずなのに)

 できない、なんて、ない。ぼくにとって、「できない」は甘えと同義だ。ぼくが、ぼくに、ゆるさない。だって、他に誰かがこれをしてくれるというのか? できない、なんていうのは、他に選択肢がある連中だけだ。やらないで済まされる道を選べるひとたちだけだ。

(瑠璃)

 唇を噛む。空を駆ける、瑠璃のことを考える。

(ぼくより、瑠璃のほうが、もっと、ずっと、痛くて、怖いはずなのに)

 ごめん、瑠璃、ごめん。

 もっと、ちゃんと、できるように、なるから。これくらい、なんでもないから。


 どうか、また、一緒に眠って。


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