第四話

 灰色の雲の天井を抜ければ、視界の全ては青に染まる。遮るものの何もない真上から、容赦なく頬に突き刺さる、太陽の熱と光の矢。

 陽の光の温度は上がるのに、風の温度はすっと凍える。空は、両極にあるものの差が一際ひらく場所だと思う。陽の熱さと風の冷たさも、光と影の境界も、生きて飛びつづけるか殺されて墜ちていくかの分岐も。

「鴉」

「何だ?」

「あなたは、上昇するときと下降するとき、どちらの方が好きですか?」

 おれと並んで飛んでいた鴎が、不意に、おれにそう尋ねた。考えたことはなかったが、その答えを、おれは容易たやすく用意できた。

「上昇するときだ」

 停滞した方舟の空気、匂い、ざわめき、雲に阻まれた陽の光、絡み合う思想、大人と子供……そんなあらゆるしがらみを振りほどいて、透明な空へと上がる。遠ざかる混沌。静謐せいひつな空へと身を躍らせる。その瞬間が、好きだ。もしカミサマにたれて墜とされることがあるならば、中途半端に臓腑をやられるより、墜ちるという事実を知覚する刹那もないよう頭を吹き飛ばしてほしい。

 けれど、なぜ、こいつは、そんなことをきくのだろう。おれの顔に怪訝の色が浮かんだのをみとめたのか、鴎はちいさく微笑んで、肩をすくめた。ほんのたわむれに尋ねただけなのかもしれない。

「そう言う、おまえは、どっちが好きなんだ?」

 逆に訊き返してやると、鴎は数秒、何かを思い浮かべるように瞳をゆらした。

「ぼくは、下降するときですね」

「なぜ?」

「約束を守れたと、実感できるから」

「約束?」

「そう」

 生きて戻るという約束。呟くように、鴎は答えた。噛みしめているようにもきこえた。ふと、柊の顔が、脳裏をぎった。たとえ、おれがとされても、あいつはただ、「そうか」と頷くだけだろう。おれの死体が届けられれば、自分の研究のために解剖くらいはするかもしれないが、それ以上のことは、きっとない。柊はそういう人間で、だからこそ、おれは身軽でいられる。何も持たずに、上だけを見て飛ぶことができる。

 全てを振り切って飛ぶおれが戦闘機に守られる輸送機で、戻る約束を結んでいるこいつが戦闘機なのは、なんて大人らしい皮肉だろう。

「方舟に、大切な人間がいるんだな、おまえ」

 死ねない理由になるほどの。それは、なんて重い、しがらみだろう。



*



 一刻ほど飛んだところで、目的のものが見えてきた。空中に浮かぶ、巨大な水球。別の方舟から来たのだろう、他の羽人の姿も何組かあった。今回のおれたちの任務、それは、方舟が飛行するための動力源となる《浮力石》を調達すること。方舟が空に浮かびつづけているためには、定期的に《浮力石》を補給する必要があった。

 浮力石は、水球の中にある。

 おれたちの他に、羽人は二組。軽く手を上げて、形式的な挨拶を交わす。水球は、空のあちこちにあって、しかも、ひとつの水球の中に、浮力石は豊富に存在する。だから、それを巡って羽人同士が、ひいては方舟同士が争うことはない。少なくとも、あと数十年は。


――平和でなくなる頃には、君はおとなだ。良かったね。


 柊の言葉が蘇る。かつて、人間の寿命が八十年以上あった頃、〝若者〟は〝老人〟にとって使い捨ての道具にすぎなかったのだと、いつか、柊は、おれに語った。ならば、かつての半分ほどしか生きない今の世界では、こどもは消耗品に等しくて、おとなに消費されずに残ったこどもが、次のおとなになるのかもしれなかった。たたかうのはいつだってこどもで、たたかわせるのはいつだっておとなだ。

「待ってください、鴉」

 すっと、前を飛ぶ鴎の腕が水平に上がった。鴎に合わせて、おれも上昇を中断する。走る緊張。ぐ神経。カミサマか? と、とっさに辺りを見回したが、澄んだ青が広がっているだけで、先を行く他の組以外に、影は見当たらない。ぴんと張り詰めた青の空気。

「鴎……?」

 気のせいじゃないのか、と続けようとした、とき、

 水球の前で、一組の羽人が、四組に増えた。

(なに……?)

 違う。増えたんじゃない。分裂したんだ。果物を切り分けるように、ばらばらに斬られて。

(水球の裏で、待ち構えていやがったのか)

 舌打ちして、おれは腰の刀に手をかけた。だが、抜こうとした瞬間、白い掌が、それをはばんだ。鴎だった。

「なぜ止める? おまえ、あいつらを見殺しにするのか?」

 同じ羽人だろ? 仲間だろ? 低く憤りをこめたおれの声が、鴎の背中を叩いていく。鴎はこちらを見なかった。ただ頭上に浮かぶ水球と、全滅していく組を見ていた。

「あなたが特攻したところで、彼らと同じ道を辿るだけです。あなたの任務は、みすみす殺されることじゃないでしょう」

「だからって」

「行けば命令違反になります。それに、あなたに今、あそこへ行かれたら、ぼくは、あなたを守れなくなる」

 鴎の右手が、背中の刀を、ゆっくりと抜いた。向かう全ての羽人をほふったカミサマが、ゆらりとこちらを向く。次はおれたちというわけだ。

「鴉、左方向に迂回して、水球に飛び込んでください」

 カミサマは、水球の中には入ってこない。

「二分半、息をとめていられますか?」

「……なめんな、これでも元戦闘機だ」

 言ってやると、鴎は小さく頷いた。まとう空気が、かすかにゆれる。微笑んだのかもしれない。

「二分半で、片をつけます」

 すう、と鴎が静かに息を溜める気配がした。戦闘時の速度で飛ぶと、呼吸なんてろくにできなくなる。

 とん、と地面を蹴るように、鴎はまっすぐに跳ねた。水球に、カミサマに向かって、急加速。それを合図に、おれも大きく左へと旋回する。

 空でカミサマに遭遇したら、逃げられない。なぜなら、どの羽人よりも高速で飛行できるからだ。逃げても背中から撃たれるだけ。だから、戦って勝って生き残るか、負けて殺されるか、そのどちらかしかない。

 水球が近づくにつれて、先刻まではただの影としてしか見えなかったカミサマの姿が明らかになる。カミサマと一口に言っても、姿形は様々だった。今回のそれは、おれたちよりもすこし大きいくらいで、墨色のからだに、長い枝と根をもつ樹木のような姿をしていた。数十本はありそうな枝と根は、ひとつひとつが刃になっているらしい。

「く……っそ……っ」

 分かっていた。分かりすぎていた。今のおれが挑んで、勝てる相手じゃないだろうこと。到底、かなうはずがないだろうこと。輸送機か、戦闘機か、羽人の機種は、その二択だ。そして、戦闘機の役目は、カミサマと戦い、輸送機を守ること。カミサマと戦える力を持ち合わせない今のおれは、なにも守れない。

 水球は、空に浮かぶ巨大な水の塊だ。水自体は無色透明だが、内包する浮力石の放つ光の色と、周りの空の色を映して、鮮やかな青い色をしている。

 カミサマの躯が、おれの方を向いた。枝を伸ばし、襲いかかってくる。カミサマに意思があるのかは知らないが、おれの方がほふりやすいとでも思ったのか? だが遅い。枝の先がおれに届くより早く、鴎の刃がそれを斬りおとし、おれは水球に飛び込んでいた。

(……あ……)

 先客が居た。戦闘機を喪った輸送機が一機、水球の中に逃れていた。口をおさえて、苦しげに上体を折っている。おれが入ってきたことには気づいていない。外ではまだ鴎が戦っている。二分半……鴎の言葉が頭を掠めた。この輸送機は、何分前からここにいるのか。どうみても限界だった。

(待ってろ、今、空気を……)

 声を出せないのがもどかしかった。水をかいて彼の方に進む。おれよりもいくつか年上だろうか。肩を叩こうと手を伸ばした。けれど、

(だめだ……! 出るな!)

 おれの手は届かなかった。指の間を、水流が、むなしく、すり抜けていく。彼は水を蹴っていた。カミサマが居る方とは逆の水面へ。けれどそれは、無駄でしかない。

 水球の表面に、ぱっと鮮やかな赤が散った。水であるはずなのに、それは水球には溶け込まず、とろとろと伝い、洗い落とされるように雲の下へと滴り落ちていく。墜ちていく輸送機。血塗られた水面の向こうに、おれは、鴎の顔を見た。

 ばかか、と思った。あんなに、平然と、おれを止めておいて、あんなに、冷やかな声で、おれを諭しておいて、おまえこそ、なに、泣きそうな顔してるんだよ。

 刀を抜いた。悪い、鴎。とん、と、おれは静かに水を蹴る。水面の向こう、カミサマを見据えて。刀を構える。鴎、だてにおれ、歳くってねえよ。

 水球を出る。おれの動きを察した鴎はもう動いていた。下から伸びる根が首を掠める。かわして、その根元に刃を突き立てる。全ての枝が、根が、一斉におれへと切っ先を向ける。今だ。

「ざまあみろ!」

 叫んだおれは多分、笑っていた。鴎ははやかった。枝の先がおれの胸を切り裂く前に、鴎の刀がカミサマの核を貫いていた。カミサマの体表にある、唯一にして最大の急所。それが核だった。こどもの掌くらいの大きさで、空そのもののように、羽人の瞳のように、どこまでも澄んだ青の塊。砕かれたそれは、急速に光を失い、黒く色を変えた。崩れるように落下していく墨色のからだ。その向こうに、白く華奢な影が浮かぶ。

「怪我は?」

「……見てのとおりです」

「そりゃ良かった」

 鴎の頬は赤かった。うつむいて、くるりと背を向ける。おれは肩をすくめた。水球に戻って、水底に沈む浮力石を、手早く拾う。背負った箱が一杯になるまで。

「帰るぞ」

 薄い背中を、ぽんと叩く。浮力石を背負ったのは初めてだが、重さを感じるのは水球の中だけで、空気中では一所ひとところに留まって浮かびつづける性質があるようだった。重くはないが、抵抗は大きく、飛ぶのに力が要る、そんな石だった。

「今カミサマに襲われたら、やばいな」

「……鴉」

「ん?」

 方舟に向かってゆっくりと下降しながら、雲に入る手前で、鴎は言った。

「あなたが今日したことは、《社》の命令違反です」

「そうだな」

「でも、あなたが刀を振るってくれたおかげで、ぼくは無傷で今、ここにいられます」

 ありがとう。

 静かに、けれど確かに届く凛とした声で、鴎は呟いた。

 空の青が途切れ、灰白色の雲が視界を覆っていく。

「……なぁ」

「はい?」

「空へ上がるとき、おまえ、おれにきいたよな」

「ええ」

「今度は、おれからきいて良いか?」

 雲の下、方舟の輪郭が見えてくる。もう少しだ。

 頷く代わりに、鴎は静かにおれをみつめ、言葉の続きを待っている。ひと呼吸の後、おれは口をひらいた。

「生きたい、と、死ねない、おまえは、どっちだ?」

 いつか、飛べなくなっても。

 沈黙がつづいた。悪い変なこときいた、と撤回しようとした矢先、ぽつり、と雨の雫のように、鴎の声が響いた。

「生かしたい、です」

 鴎の表情が、ふっと和らいだ。方舟をみつめて、白く、淡く、霞草かすみそうみたいに微笑んだ。

「しがらみじゃなくて、糸なんです」

「糸?」

「そう。ぼくを繋ぎとめてくれる糸」

 それがあるから、ぼくは生きていられる。

 会話はそこで途切れた。方舟の甲板には、医療班が既に待機している。軽く手を上げて、負傷がないことを伝えた。

 怪我はない。だから次も、飛ばせてくれる。


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