第五話

 舞の時間は好きだ。まとう衣装も、体の重さも、義務の意識も、なにもかも刹那、忘れられるような気がするから。

 指の先からつまさきまで、意識の糸を張りめぐらせる。すみずみまで行き渡る血のように。わずかな空気の流れさえ、掴み、感じとれるくらいに。

 かるく伏せた瞳。畳の上、足袋たびで包んだつまさきで、くるりと滑らかに円を描く。右手には扇。左下から右上に、ひらりと返して天を仰ぐ。瞳に映るのは、ただ見慣れた木組みの天井だけれど、ぼくは遥かその先に広がる、ほんものの空を想像する。開け放った障子から流れ込む、様々な匂いのとけた、昼下がりの街の風。空では、もっと強く清涼な風が、絶えず吹き抜けているのだろう。ぼくは舞う。半ば夢見心地で。しがらみなんて、まるでなにもないように、舞う。気持ちいい。きっと、空は、もっと。

 舞の稽古の日だった。他の見世では、仕込みの時期が終わって客をとるようになれば、それ以降の稽古は個々人に任され師匠はつかない、というところもあるらしいけれど、ぼくの居る見世では〝芸に天井はない〟という女将の信念のもと、ぼくのようにひとりで客をとれるようになったあとも、定期的に師匠による稽古の時間が、昼見世の時間帯に、客の入りがない頃合いを見計らって順番に設けられている。

さいせい

 本来ならば、お師匠様とでも呼ぶべきなのだろうけれど、ぼくは彼を、名前で呼んでいた。彼がそれを望んだからだ。歳星は、この見世の師匠になる前からずっと、ぼくの先輩で、先生だった。今でこそ倡伎しょうぎの仕事は引退しているけれど、客をとっていた頃は、常にこの見世の最上位を保ちつづけていた。

「舞うのは好きか」

 歳星が、満足そうに目を細めて、ぼくに言った。好きか? じゃなく、好きか、だった。

「好きだよ。体を動かすのは好き。扇を使う舞は、もっと好き」

 この体を地上に縫いとめようとする力に、少しでも逆らえているような気がするから。

 ぼくが答えると、歳星は笑った。

「お前は、すぐに俺を越えるよ、しんせい

 辰星……それは、ぼくの、仕事上の名前だった。もちろん、歳星だって、本名じゃない。方舟では、仕事場で与えられる名前が通称だ。大抵、その仕事の象徴となるものの名前がつけられるから、名乗れば、そのひとが、どんな仕事に就いているのか、方舟の中でどんな役割を果たしているひとなのか、わかるようになっている。だから、仕事場や所属が変われば名前も変わる。もし、ぼくがこの見世からいなくなれば、新しく入った誰かが、ぼくの替わりに辰星と名乗り働くことになる。通称で営まれる方舟の日々。それは、人々がいくらでも替えがきく存在なのだという、なによりの証明なのかもしれなかった。本名で呼び合うのは、おおよそ家族のあいだだけだ。だから、ぼくは歳星の本当の名前は知らないし、ぼくも自分のそれを教えることはない。ぼくを本当の名前である玻璃と呼ぶのは、今はもう瑠璃だけだったし、瑠璃を瑠璃と呼ぶのもまた、ぼくだけだろうと思う。今までも、これからも、きっと、ずっと。

「そう言ってもらえて光栄だよ、歳星。でも、ぼくが万一あなたを越えることがあるとすれば、それは、あなたがぼくを仕込んでくれたからだよ」

 かるく肩をすくめて、ぼくは応えた。誇張でも謙遜でもなく、事実だった。ぼくがこの見世に買われてから、ひとりで客をとれるようになるまで、ぼくを仕込んだのは歳星だった。身のこなし方も、仕草の整え方も、声の出し方も指の使い方も抱かれ方も、全て。

「俺を恨むか?」

「どうして恨むの?」

「お前は、生徒として優秀すぎた」

「優秀なのは、良いことじゃないの?」

 変な歳星、と、ぼくは笑った。歳星に教わった、こどもらしい、正しい笑い方で。


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