第六話
鴎とは、《社》の中央階段で別れた。おれは浮力石の引き渡しをするために下の階へ、そして鴎は、今日の戦果を報告するために上の階へ。
「じゃあ、また」
「ああ」
そんな短い会話で結んで。
浮力石を渡す場所は、階段を下りてすぐのところにあった。
誰かいないのか? 辺りを見回したとき、すっと右の障子がひらかれた。藍色の小袖を着た、おれよりも十歳ほど年上らしい、おとなの女だった。
「悪い。待たせたね」
「別に。待つほど待っていない」
答えると、彼女は「そりゃ幸い」と、くすくすと明るく勝気な笑顔を浮かべた。
「初めて見る顔だね。ひょっとして新入りさん?」
「いや……今日付けで戦闘機から輸送機に転属になった」
自然と口が重くなる。早くこの場所を去りたいと思った。
「気を悪くさせたね、ごめん」
おれの顔色を察したのか、彼女は、ふっと表情を和らげた。おれを
ふと、彼女の首に、傷痕を見つけた。小指の長さくらいの、直線の傷。刺傷だろうか、それとも切り傷だろうか、いずれにしても、鋭い刃物が刻んだものであることはみてとれた。彼女のまとう雰囲気に、それはとても不釣り合いな感じがした。
「ひとつだけ、おせっかいを言っても?」
「何だ?」
一呼吸、数えたあと、
「輸送機になったと、言ったね」
「ああ」
「なら、焦らずに決めな」
「え……?」
「焦りは絶望を生む。落ちついて、希望を繋げる将来の道を、考えればいい」
淡々と、彼女は言った。ゆっくりと、静かに。低くもなく、高くもない、おちついたおとなの女の声が、石の壁に、天井に、吸い込まれるように響いていく。
「それは、おとなとしての助言か?」
「いや、先輩としての忠告だ」
「先輩……?」
あんたもかつては空を? その問いかけが、おれの口から放たれる前に、彼女は微笑とともに踵を返した。浮力石の光を映した青褐色の瞳と、ふわりとなびく、おれより少し暗さを増した鈍色の髪が、わずかに残像として焼きついた。
*
薄紅色に染まった空の下、寮へと続く大通りを歩く。ひしめきあう
格子状に整えられた街路。煉瓦造りの商店が、敷地の僅かな隙間さえ埋め尽くすように密集している。ちょうど
おれがこの方舟で暮らしはじめて、もうすぐ三年になる。この道にも、街に溢れるざわめきにも、とっくに慣れた。いつもと同じ道。いつもと同じ喧騒。人々の群れ。
でも、空だけは、いつも違った色をみせてくれる。
ふと、道の途中で、おれは足を止めた。藍色に染まりゆく東の空に、小さく、雲の切れ間が見えた。ぽつ、ぽつ、と灯りはじめた星々が
(願い、か)
地上の願いを叶えるのが空に灯る星々ならば、空そのものが望みであるおれは、いったい何に願いを託せば良いのだろう。
ふらり。半ば無意識に、おれのあゆみは路地へと折れていた。人の海を抜け、星の灯る方へ。なぜ? 自分でも不思議だった。雲の向こうへ飛んでいけば、おれなら、いくらでも、満天の星空を眺めることだってできるはずなのに。どうして雲間から垣間見える光の一粒二粒に、こんなにもひきよせられるのか。
再び雲に閉ざされていく空。
(ここは……?)
見慣れた街路とは、全く雰囲気の異なる通りを歩いていた。
その中に、ひとひらの雪をみた。
ぞっとするくらい、白い肌をしたこどもだった。頬を縁取る黒髪と、身に
「……鴎……?」
吹き抜ける風。赤い光の
星のない夜空に吸い寄せられるような心地がした。足が自然と彼の方へと向く。彼は表情を変えず、ただ、じっと、おれをみつめている。一歩、二歩、三歩、足を進めたところで、両側から、二の腕を強く掴まれた。背の高い強面のおとなの男が、二人、おれを左右から挟みこんでいた。警備の人間だろうか、旧時代の
「お前、子供だな」
「ここは子供が遊ぶところじゃねえんだ。全く……門番は何をやっているんだ」
わけがわからなかった。ただ強く腕を掴まれたまま、おれは、元来た道を引きずられていく。来るときには気がつかなかった大きな黒い門が、通りの先に
「こどもが遊ぶところじゃないって、どういうことなんだ?」
「大人の遊び場だってことさ。もうちっとでかくなったら、また来るんだな」
ますますわけがわからなかった。彼らの言葉を頭が
少年の姿は、もう見えなかった。けれど、雪のように鮮烈な白の残像は、目に焼き付いて離れなかった。
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