第六話

 磨硝子すりがらすのように均一に、薄い雲が覆った空だった。白い紗を染料にひたしていくように、夕陽の薄紅が端から淡く滲んでいる。今空を飛んだなら、金糸で織られた光の帯を、視界一面に望むことができただろう。

 鴎とは、《社》の中央階段で別れた。おれは浮力石の引き渡しをするために下の階へ、そして鴎は、今日の戦果を報告するために上の階へ。

「じゃあ、また」

「ああ」

 そんな短い会話で結んで。



 浮力石を渡す場所は、階段を下りてすぐのところにあった。螺旋らせん階段の踊り場に沿って、十歩ほどの奥行きの、半円形の空間が広がり、ちょうど半円を五等分するように、五枚の障子が並んでいた。障子以外、床も壁も天井も、黒い石でできていた。ひんやりとした静かな暗闇。所々、行燈あんどんが灯されていたものの、薄暗く、抱えた箱から漏れる浮力石の青い光が、ぼんやりと、おれを包むように照らしていた。

 誰かいないのか? 辺りを見回したとき、すっと右の障子がひらかれた。藍色の小袖を着た、おれよりも十歳ほど年上らしい、おとなの女だった。鈍色にびいろの髪を後ろで無造作にまとめている。

「悪い。待たせたね」

「別に。待つほど待っていない」

 答えると、彼女は「そりゃ幸い」と、くすくすと明るく勝気な笑顔を浮かべた。

「初めて見る顔だね。ひょっとして新入りさん?」

「いや……今日付けで戦闘機から輸送機に転属になった」

 自然と口が重くなる。早くこの場所を去りたいと思った。

「気を悪くさせたね、ごめん」

 おれの顔色を察したのか、彼女は、ふっと表情を和らげた。おれをいたわるような面持ちだった。おれは何も言わずに、箱を差し出した。彼女も、それ以上の言葉をつぐんだまま、それを受け取った。浮力石の光が、彼女の輪郭を青く明るく照らし出す。光を浴びて、彼女は、最初の印象よりも、ずっと若く見えた。もしかしたら、おれと五歳くらいしか離れていないのかもしれない。

 ふと、彼女の首に、傷痕を見つけた。小指の長さくらいの、直線の傷。刺傷だろうか、それとも切り傷だろうか、いずれにしても、鋭い刃物が刻んだものであることはみてとれた。彼女のまとう雰囲気に、それはとても不釣り合いな感じがした。

「ひとつだけ、おせっかいを言っても?」

「何だ?」

 きびすを返す刹那、呟くように彼女は言った。足を止めて、おれは半分だけ振り返る。

 一呼吸、数えたあと、

「輸送機になったと、言ったね」

「ああ」

「なら、焦らずに決めな」

「え……?」

「焦りは絶望を生む。落ちついて、希望を繋げる将来の道を、考えればいい」

 淡々と、彼女は言った。ゆっくりと、静かに。低くもなく、高くもない、おちついたおとなの女の声が、石の壁に、天井に、吸い込まれるように響いていく。

「それは、おとなとしての助言か?」

「いや、先輩としての忠告だ」

「先輩……?」

 あんたもかつては空を? その問いかけが、おれの口から放たれる前に、彼女は微笑とともに踵を返した。浮力石の光を映した青褐色の瞳と、ふわりとなびく、おれより少し暗さを増した鈍色の髪が、わずかに残像として焼きついた。



*



 薄紅色に染まった空の下、寮へと続く大通りを歩く。ひしめきあう煉瓦れんが造りの商店。遠目には、ただの廃墟にしか見えないかもしれない。ひびの走った壁、かしいだ柱、曲がったはり、今にも崩れそうな屋根と朽ちかけた床。建て直そうにも、資材がなくては、どうしようもなかった。建材となる木も石も土も、元々方舟に築き上げられていた物の分しかない。それを、ひたすらに再利用を繰り返して継続させている。方舟で育つのは、ほとんど使い道のない、細い低木ばかりだった。社の研究によって、少しずつ建材となりえるものも生まれてはいるけれど、そんな貴重な資材は、社とその関連機関でまず消費されるから、その下に広がる街まで回ってはこない。だが、建物は廃墟同然でも、中に入れば活気はあり、物と金と人が渦となって日々をめぐらせている。

 格子状に整えられた街路。煉瓦造りの商店が、敷地の僅かな隙間さえ埋め尽くすように密集している。ちょうど夕餉ゆうげの時間帯で、食べ物屋から漂ってくる、醤油の焦げる香ばしい匂いや、果物を煮る甘い香りが、夜風に絡み、客を引いていた。

 おれがこの方舟で暮らしはじめて、もうすぐ三年になる。この道にも、街に溢れるざわめきにも、とっくに慣れた。いつもと同じ道。いつもと同じ喧騒。人々の群れ。

 でも、空だけは、いつも違った色をみせてくれる。

 ふと、道の途中で、おれは足を止めた。藍色に染まりゆく東の空に、小さく、雲の切れ間が見えた。ぽつ、ぽつ、と灯りはじめた星々がのぞく。気付いた何人かが空を指差し、歓声をあげる。店の中から、わらわらと流れ出てくる人、人、人。大通りは、たちまち、空を仰ぐ人々で埋まった。願い事を呟く人もいた。雲に隠れて飛びつづける方舟で、星が望める機会は多くはない。

(願い、か)

 地上の願いを叶えるのが空に灯る星々ならば、空そのものが望みであるおれは、いったい何に願いを託せば良いのだろう。

 ふらり。半ば無意識に、おれのあゆみは路地へと折れていた。人の海を抜け、星の灯る方へ。なぜ? 自分でも不思議だった。雲の向こうへ飛んでいけば、おれなら、いくらでも、満天の星空を眺めることだってできるはずなのに。どうして雲間から垣間見える光の一粒二粒に、こんなにもひきよせられるのか。

 再び雲に閉ざされていく空。かげる光。思わず手を伸ばしそうになったところで、我に返って立ち止まる。

(ここは……?)

 見慣れた街路とは、全く雰囲気の異なる通りを歩いていた。

 そびえ立つ黒うるしの楼閣。影の下、氾濫する、赤と緋と朱の光。夕風にゆらめく、鬼灯ほおずきに似た鈴なりの提燈ちょうちん。入り乱れ交叉する光と影。おぼろになる、物の輪郭。攪拌かくはんされていく現実感。とろりと絡みつく、甘くぬるい街の空気。

 その中に、ひとひらの雪をみた。

 ぞっとするくらい、白い肌をしたこどもだった。頬を縁取る黒髪と、身にまとう藍色の衣が、その白さを一層ひき立てていた。ひときわ大きな楼閣だった。二階の、渡り廊下のまんなかで、彼は空を見上げていた。

「……鴎……?」

 吹き抜ける風。赤い光のつぼみが一斉にそよぐ。交叉する影の中、彼の瞳が、ふっと、ゆらいだ。向けられるおもて。まなざし。重なる視線。夜空よりも深い、黒の瞳。そこに、おれは、自分と同じ闇をみた。それは、おれよりも、もっと強く、研ぎ澄まされた望みだった。空に、焦がれていた。すべてのしがらみを、ふりほどいて。

 星のない夜空に吸い寄せられるような心地がした。足が自然と彼の方へと向く。彼は表情を変えず、ただ、じっと、おれをみつめている。一歩、二歩、三歩、足を進めたところで、両側から、二の腕を強く掴まれた。背の高い強面のおとなの男が、二人、おれを左右から挟みこんでいた。警備の人間だろうか、旧時代のよろいを模した衣装をまとっていた。

「お前、子供だな」

「ここは子供が遊ぶところじゃねえんだ。全く……門番は何をやっているんだ」

 わけがわからなかった。ただ強く腕を掴まれたまま、おれは、元来た道を引きずられていく。来るときには気がつかなかった大きな黒い門が、通りの先にそびえている。

「こどもが遊ぶところじゃないって、どういうことなんだ?」

「大人の遊び場だってことさ。もうちっとでかくなったら、また来るんだな」

 ますますわけがわからなかった。彼らの言葉を頭が咀嚼そしゃくする前に、おれは大門の外へと放り出されていた。

 少年の姿は、もう見えなかった。けれど、雪のように鮮烈な白の残像は、目に焼き付いて離れなかった。


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