第四話

 橙色だいだいいろに燃える燈籠とうろうが、薄ぼんやりと暗がりに滲む、早朝の湯殿。夏のあいだは僅かに外の明かりを取り込んでくれていた板張りの窓も、冬も近づいた今ではぴたりと閉ざされ、どこもかしこも薄暗い。

 湯殿には、わたしたち以外にも、仕事を終えた花たちが夜の汚れを落としに来ていた。おつかれさま、と互いに会釈を交わして、わたしは睡蓮と一緒に、洗い場のいちばん端におけを持って座った。

「髪、流すよー」

 睡蓮の小さな頭に、わたしは桶でんだ温めの湯をかける。そのあいだ、睡蓮は目をぎゅっとつむって、両手で両耳をしっかりとふさいでいる。目や耳に湯が入らないようにと言いつけた、わたしの言葉を、睡蓮は守りすぎるほど守っていた。かわいい、と思う。睡蓮は、とてもかわいい。

 行商人が睡蓮を連れてこの楼に売り込みにきたとき、楼主は最初、声を出せないことを理由に睡蓮の買い取りを断った。偶々たまたまその場に居合わせたわたしが楼主に願い出ていなかったら、睡蓮は睡蓮ではない別の名前をつけられて、この楼とは別の、下級の楼に売り飛ばされていただろう。今から思えば、花であるわたしが楼主にかけあうなんて、身の程をわきまえていないのもはなはだしかったけれど、そのときのわたしは、必死に、楼主に頭を下げて頼んでいた。この子を、この楼の苗にしてください。わたしが、立派な花に育て上げますから。

 どうしてわたしを? と、睡蓮がいつか、そのときのことを、わたしに尋ねたことがある。当然の疑問だと思う。わたしたちに血の繋がりはなく、あまつさえ、あのときが初対面だったのだから。さあ、どうしてだろうねと、わたしは微笑んで瞳を伏せた。睡蓮がとてもかわいい顔をしていたからよ、と答えてはぐらかしたけれど、ほんとうは、多分、睡蓮が、わたしと、とてもよく似ていたから。

 人と人は支え合って生きているのだと、おとなたちは言う。それはつまり、お互いに与え合う関係でなければならないということだ。貰ったら貰った分だけ、相手に返さなければならない。貢献しなければならない。一方的に享受するばかりなのは、ただの寄生だ。なにもせずにのうのうとのさばる者に、生きる資格などない。こどもだろうと、おとなだろうと、それは同じ。生きるに値する能力がおのれにあるのか、ないのか。この世界で、この方舟で問われるのは、ただひとつだ。

 そんな世界において、《やしろ》のつくりあげた《かご》という街は、とても有効な受け皿だった。わたしのような、なにももたないこどもが、体ひとつで生きていける場所。それが《籠》だった。ここにいれば毎日ごはんが食べられるし、着物だって与えられる。雨風をしのげる屋根の下、病気になっても見殺しにされず、ちゃんと医師に診せてもらえる。すくなくとも、おとなになるまでは。

 だから、花でなければという嘆きを、わたしはいだかない。花になれていなければ、わたしはとうの昔に、飢えて凍えて死んでいたのだから。花であることを否定することは、今まで生きてきたわたし自身を、否定することと同じだから。

 おとなたちは、わたしを愛でる。綺麗だ、と言って、美しい、と笑って、わたしに欲を注ぎ込む。注がれたその欲が、わたしを生かす。おとなに愛でられるという能力、それが、わたしの生きる能力だ。生きていても良いという証拠だ。

 わたしには、この体という需要がある。

『どうかしたの? 姉様』

 睡蓮が、ふっと顔を上げて、わたしをみつめる。なんでもない、ちょっと考え事をしていただけよ、と、わたしは微笑む。

「髪、きれいに伸びたね」

 そろそろ腰に届くだろう長い睡蓮の黒髪を、わたしは丁寧に黄楊つげくしいていく。白い肌に、漆黒の髪は、とても良く映える。

『姉様みたいになれるかな』

 湯けむりに曇った鏡に、睡蓮がちいさなひとさし指で科白をつづる。

「もちろんよ」

 睡蓮はわたしの妹だもの。わたしが育てるんだもの。そう続く傲慢を、わたしは喉の奥であやめた。わたしみたいに、では足りない。わたしは睡蓮を、わたしよりもずっと優秀な花に育て上げたい。声を生めなくても、ちゃんと生きていけるように。

「ひと眠りしたら、箏のお稽古をしようね」

 こくりと勢いよく頷く小さな頭。素直で可愛い、かわいい、わたしの妹。

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