第三話

 箏の音色が、わたしを包む。十三本の絃が奏でる、艶やかな旋律にのせて、わたしは扇をひらりと返し、くるりと滑らかに円を描く。

 姉様に教わった、扇の舞。かるく瞳を伏せながら、わたしは目に焼きつけた姉様の所作をひたすらになぞっていく。腕の角度も、指先の表情も、視線の使い方も、姉様と等しくできるように。

「これはなかなか」

 織りなされた座興の舞に、客のおとなは満足げな笑みを浮かべて頷いた。鳴り止む箏。わたしはそっと扇を下ろし、会釈をして、すっと脇に下がる。

「初めて見る子だねえ。こんな子を、いつのまに育てていたんだい? 桔梗ききょう

 姉様のさかずきを受けながら、客のおとなが、わたしを手招きする。わたしはぺこりとお辞儀をして、姉様の隣、客の斜め前に進んだ。提子ひさげを置いて、姉様がわたしを紹介する。

「睡蓮といいます。ひと月前に、つぼみになりました」

 楼で働くわたしたちには、苗、蕾、花、という三つの段階がある。売られてきて芸を身につけるまでが《苗》と呼ばれる仕込み期。芸を覚えて座敷に出ることがみとめられれば《蕾》と呼ばれる見習い期。さらに芸を磨いて姉様のようにひとりで客をとれるようになると〝一輪前いちりんまえ〟の《花》と呼ばれる。

 一人前、じゃなく、一輪前。もともとは客のひとりがたわむれにくちずさんだ言葉遊びだったらしいけれど、その言葉はおとなたちのあいだですぐに広まって、今ではすっかり根付いている。皮肉というには、あまりにも自然に。

「ひと月前というと……ひょっとして、うわさに聞く、声の無い蕾っていうのが、この子かい?」

「ええ」

 姉様は頷いた。わたしの存在は、おとなたちのあいだで、既に有名になっているらしい。

「なるほど、こうして近くでよく見れば、まさに、噂にきいた通りだなあ。精巧につくられた陶器の人形のようだ」

 客の男が興味深げに、わたしの顔を覗きこむ。こういうときは目をらしてはいけない。わたしはすっと瞼を上げ、男の焦げ茶の瞳をまっすぐにみつめた。男の口角が、にやりと、笑みのかたちにゆがんでいく。

「是非、私の手で咲かせて、なかせてみたいものだな」

 骨張ったおとなの男の指が、わたしの顎を持ち上げる。男の瞳に浮かんだ色に、わたしはひゅっと息を飲み込み、袖の中に隠した両手をこぶしのかたちに結んだ。どうしよう、こわい。まだ、どうしても、慣れない。どう動けばいいの。どう返せばいいの。わからない。向けられる好意の、欲の、応え方が、正解が、みつけられない。おとなは何を求めているの。何を与えれば満足してもらえるの。もし、下手なことをして、この客の……このおとなの、機嫌を損ねてしまったら、気分を害してしまったら……そう思うと、指ひとつ、舌ひとつ、動かせなかった。どうしよう、これじゃ、わたし、蕾、失格だ……。かさついた硬い指がわたしの唇をなぞるのを、わたしは瞬きもできずに受けていた。

 助けてくれたのは姉様だった。

「光栄です。初夜のりにかけられたあかつきには、是非、一番、高い値をつけてやってください」

 客とわたしのあいだに、すっと、細い体を滑り込ませて、姉様は微笑んだ。白い右手で客の頬を撫でて、そして左手は、わたしの拳の上に重ねて。大丈夫よ睡蓮、そう、わたしに、語りかけるように。

「夜も更けてきました。とこへ参りましょう」

 姉様がいざなう。わたしから離れた男の指が、代わりに姉様の、華奢な肩をつかむ。わたしはうつむいた。結んでいた拳を解いて、行燈あんどんの炎に、そっとふたをする。まずはひとつ。ふたりが席を立ったら、もうひとつ。灯りを消して、薄闇をつくる。座敷の奥、ぽっかりと口をあけて待ち受ける暗闇の中に姉様と客の影が飲み込まれていくのを見届けて、わたしは床の間と座敷をへだてるふすまを静かに閉じる。灯りと襖。蕾であるわたしの仕事はここまでだった。ここから先は、花である姉様の仕事。ひとりきりで、こなす仕事。

 ぴたりと閉ざした襖の前で、わたしは唇を引き結んだ。お願い、酷くしないで。姉様を壊さないで。夜の底で、わたしは祈る。宛先などなくても。姉様。姉様。

 早く夜が明ければいいのに。姉様とふたりで客を送り出す、透きとおった青い朝の風景を、わたしは夜闇の中、思い浮かべる。楼の前に横たわる、黒く水を湛えた水路。そこに架けられた、朱色の橋。青に包まれた大気の中で、朝露あさつゆに濡れた橋は艶々と鮮やかに浮かび上がって見える。客に宛ててひらりと振られる姉様の右手。左手はわたしの右手を、ぎゅっと握っていてくれる。遠ざかるおとなの足音を、わたしは待ち遠しく数えていく。早く、はやく。やがて、客の背中が朝靄あさもやに消える。終わった。夜が、終わった。溜めていた息を、そっと吐き出す。ふわり。ほのかに立ちのぼる白いかすみが、ふたつ。見上げると、隣で姉様も、わたしと同じ間合いで、わたしと同じ息をついている。顔を見合わせて、くすりと笑い合う。湯殿に行こっか、と姉様は微笑む。幼く、あどけなく。このときの姉様の笑顔が、いちばん綺麗だとわたしは思う。冷たくも澄みきった朝の風。夜の熱をぬぐい去るような、静謐せいひつな朝の光と風が、わたしは好きだ。暗い夜から最も遠い、朝が好きだ。

 繋いでくれた姉様の手を、わたしは、そっと握り返す。次に見世がひらくまで、姉様はわたしと一緒にいてくれる。

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