第十四話

 今後の方舟の進路を決めるために雲の動向を偵察に行った、任務の帰りだった。

 社で手短に報告を終えたあと、星籠の上空に回って、玻璃の灯火を探す。灯は消えていた。

 人目につかないように気をつけながら、玻璃の部屋の露台に降り立つ。ぼくがあげた夕顔の鉢が、夜露よつゆに濡れて、しっとりと佇んでいる。

「玻璃?」

 行燈あんどんの消された、真っ暗な部屋の中。布団の上で玻璃は膝を抱えていた。小さな体が、ますます小さく見えた。

「瑠璃」

 玻璃の咽喉が生んだ声は掠れていた。組んだ腕に伏せていた顔を上げて、玻璃は、ぼくをみつめた。ただでさえ白い頬から血の気が引いていて、その顔は真っ青だった。今にも壊れてしまいそうな面持ちだった。

「玻璃、教えて、何があったの」

 駆け寄って、ぼくは玻璃に手を伸ばした。ぼくをみつめる夜空の瞳は、すがるような切なさを湛えていた。玻璃の白い頬を両手で包む。ぼくの掌に雫は触れなかったけれど、だからこそ余計に、苦しかった。閉じ込められた玻璃の涙が、玻璃の中で行き場をなくして満ちて、玻璃の呼吸をとめてしまうような気がした。

 瑠璃、と震えた声が、ぼくを呼ぶ。

「……こどものままでいられないことが、こんなにも、こわいことだったなんて、しらなかった」

 長いまつげを伏せて、途切れ途切れに、玻璃は答えた。小さく、弱く、震えた声は、封じられた悲鳴のようだった。

「……甘かったんだ、ぼくは……おとなになるということがどういうことなのか、わかったつもりでいて、悟ったつもりでいて、諦めたつもりでいて……でも、ほんとうは、望むことを、完全には棄てきれていなかったんだ。瑠璃、ぼくの体は、こんなにも今、生きたがってる。それがすごくこわいんだ……生きたがる自分の体がこわい。望みを吐く自分の心がこわい。歳星を殺してしまいそうな自分がこわい」


――なによりも、瑠璃をうらやみ憎んでしまいそうな自分が、いちばん、こわい。


 涙の代わりに溢れた言葉は、涙よりもずっと透明だった。澄んだ薄氷のような玻璃の心がそのまま融けて、ぽたぽたと滴り落ちていくようだった。

「玻璃」

 それでも玻璃は、ぼくに、助けてとは言わなかった。

 腕をまわして、玻璃を抱えた。ことことと響く心音は、ぼくのそれと全く同じだった。呼吸も、胸の音も、温もりも、ぼくたちふたり、どこまでも等しかった。

「ねえ、玻璃」

 抱きしめた玻璃の耳に唇を寄せて、ぼくはささやく。

「七夕の夜に、ここを出よう、玻璃。手を繋いで、一緒に、この方舟を出よう」

 七夕祭のあいだ、警備の網は緩くなる。そこをくぐりぬけて、ふたりで飛び立とう。

 腕の中で、玻璃が身じろいだ。顔を上げた玻璃の瞳が、食い入るように、ぼくをみつめる。

「そんなことをしたら瑠璃が――」

「大丈夫。ぼくは戦闘機だ。たとえ追手が来ても、切り抜けられる。玻璃ひとり抱えて飛ぶくらい、何でもないよ」

 ぼくは微笑む。やっとなんだ。やっと、ぼくは、ぼくの望みを叶えられる。ずっと助けたかった。ずっと守りたかった。でも、今まで、ぼくは、できなかった。いや、しなかった。臆病だったからだ。でも、玻璃、今ならできる。どうか、ぼくに、きみを助けさせて。ぼくに、どうか、きみを守らせて。

「ぼくはずるい」

「狡くないよ」

「ぼくは汚い」

「汚くないよ」

「ぼくは」

「玻璃」

 抱きしめる腕に力をこめた。玻璃が壊れないように、そうっと。大丈夫、だいじょうぶ、心音にのせて、そう、繰り返し、囁くように。

「一緒に生きよう、ふたりで」


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