第十五話

 数日振りに鴎と飛んだ。基本的に、輸送機に割り当てられる任務は浮力石の調達くらいだから、戦闘機と比べて、輸送機が任務に就く頻度は圧倒的に低い。

 陽は高く、夏らしい熱線が容赦なく降り注いでいた。手早く浮力石を採取して、帰路につく。発達した積乱雲を迂回して、ゆるやかに薄雲の下へと降りていく。

「もうすぐ七夕祭だな」

「そうですね」

 ふっと、鴎は瞳を伏せて頷いた。背負った浮力石の箱を肩に掛け直しながら、おれは一年前に柊と見た七夕の風景を思い出していた。極彩色の笹飾り。大通りにひしめき踊る人々。夜空にそよぐ短冊。数々の願い。この方舟の七夕祭の豪奢さは、嫌いじゃない。かみさまの襲撃がなければいいと思う。

 そう、刹那、思いをせていた。油断していたんだ。

 すっと、視界が暗くなった。頭上に影が差したからだ。頬を鋭い空気が掠めた。鴎の刀が切り裂いた風だった。

 鴎が空を蹴る。小さな舌打ちが聞こえた。鴎がこんなふうに苛立ちをあらわにするのは珍しかった。おれが振り返ったときには、鴎は既にカミサマの触手を数本、斬りおとしていた。

 けれど、

「嘘だろ……」

 陽の光を遮る黒い群れ。人間のおとなと同じくらいの大きさのカミサマが、七柱。普段、おれたちが空で出くわすのは、大抵、一柱か二柱だ。こんなふうに群れをなすことなんてない。

(……いや、違う)

 おれは、今までに一度だけ、カミサマの集結を経験したことがある。……三年前、おれのいた方舟が、墜とされたときだ。

「方舟を、襲撃する気か……?」

 こぼれ落ちたおれの呟きに、鴎の肩が小さく跳ねた。視線も意識も頭上のカミサマに集中させながら、それでも愕然とせずにはいられなかったようだった。

 気流を掴み、鴎の隣に並ぶ。肩に掛けていた箱を棄て、代わりに腰の刀を抜く。

「初戦以来だが、命令違反させてもらうぜ」

「あなたにかなう相手じゃない」

「おまえに敵う数でもないだろ」

 空を蹴る。鴎の横をすり抜けて、第一撃、おれは斬り込む。おれを呼ぶ鴎の声が聞こえた。構わずに突っ込む。まずは一柱。

 なぁ、鴎。おれは、やっぱり、空を捨てることなんてできそうにないんだ。飛べなくなって、空を望めないままおとなになって生きつづけるくらいなら、今、思う存分、空を駆けて、その果てで、空と心中してやる。こどもだってわらうか? いさめるか? こどもだよ、おれは。

(あと四柱)

 空のどこが良い? なんて、理由や御託ごたくを並べられるくらいなら、諦めもついただろうよ。理屈じゃないんだ。理論じゃないんだ。諦めたふりをして、冷めたふりをして、いくら抑えても、飛び立てば爆発する衝動。歓喜。ただ、飛びたくて、飛びたくて、仕方がないんだ。現に、おれは、今、こんなにも飛んでる。空を駆けてる。方舟で空を見上げているときの凪いだ心なんか吹き飛んで、叫び出したいくらいに、空を享受している。

(あと二柱)

 早鐘を打つ心臓も、吹き荒ぶ風も、刃と牙がぶつかる衝撃も、全てが音色に感じた。ほら、おれは、まだ戦えるだろ、まだ飛べるだろ。

(あと――)

 おれを呼ぶ鴎の声が、遠く聞こえた。何だよ鴎? 振り返る。最初に見えたのは白い光。一瞬の後、右側の視界が消し飛んだ。それと同時に、ふわりと頬を掠めた銀の髪も。

 一切の音が、時間が、止まった、気がした。目の前には、カミサマの巨体。さいごの一柱だ。核を貫かれている。誰の刃に? あぁ、鴎の刀だ。さすがだな、鴎は。

 図鑑に載っているさそりみたいな姿をしたカミサマだった。ただし、尾は無数。ほとんどはもう斬りおとされてなくなっていて、残った尾は三本だけだった。一本は、だらりとからだの横で機能をなくしている。核を砕かれたからだ。残り二本は?

「……鴎?」

 銀の髪が、深紅に染まっていた。まっすぐに突き出された尾の一本が、鴎の右目から側頭部を砕き、おれの右目も穿うがっていた。そしてもう一本は、鴎の左の腕を奪い、そのまま胸に。

 核を貫かれたカミサマの巨体が、ぐらりと力を失い、墜ちていく。胸に刺さった尾に引きずられるように鴎の体も。とっさに腕を伸ばして抱きとめた。赤黒い尾が、ずるりと抜ける。


――ねえ、鴉。


 風の音とともに、幼い声が、耳によみがえる。


――ひとつだけ忘れないで。きみの望みは、ぼくのいちばん大切な存在によって守られているんだってこと。


(おれは、何を……?)

 冷水を頭から浴びせられた気がした。急速に冷えていく興奮。えぐられたはずの右目の痛みも、感じなかった。腕の中に、鴎がいる。なぜ? たたかったからだ。おれと一緒に。……一緒に? 違う。守ったからだ。誰を。

「……おれを……?」

 眩暈めまいがした。引力が絡みつく。振り切るように、雲間に飛び込んでいた。方舟へ。早く。柊のところへ。

「鴉……」

 腕の中、血塗れのまぶたを薄くひらいて、空色の瞳が、残された左目だけ、おれを見上げた。

「棄てていって。ぼくを」

「なに、言ってんだ」

「今の、ぼくが……戻ってしまったら……玻璃が、殺されてしまう……」

 声に混じって、鴎の咽喉から、隙間風に似た音が漏れていく。咳き込んで吐いた鴎の血が、吹き荒ぶ風に乗って、おれの頬に散っていく。

「どういう、ことだよ……わけわかんねえよ」

 速度を落とさないまま、おれは呟く。あいつなら、柊なら、何とかしてくれる。きっと。きっと。繰り返し、壊れたからくり人形みたいに、頭の中で、そう反芻はんすうして。

「それが、柊の、研究……だから……」

 ゆるく握っていた刀を、鴎はゆっくりと持ち上げた。意図を察したおれは、夢中でそれを掴み、投げ落とす。

「ばか! なに考えてんだ!」

「や……めて……ぼくを助けないで…………」

 雲が切れる。甲板が見えた。待機する医療班、おれたちを振り仰ぐ柊の姿も。

「柊! こいつを助けてくれ! 頼む!」

 叫んでいた。慟哭どうこくに近かった。おれのせいだ。おれが飛んだから。おれが望んだから。


 おれが、こどもだったから。


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