第二章-花籠-

第一話

 熱が灯る。男の体温が、わたしの体に重なっていく。くすんだ青い瞳をした、若い、背の高い男だった。手も脚も胸も、何もかも重ねて合わせてつないで、わたしは浅い呼吸を連ねていた。やがて、わたしの顔の横に、彼はおもむろに、すっと腕を立てて、体を起こした。唐突に失われる熱。離れないでと、ぬくもりをちょうだいと、熱の名残を求めるように、ねだるように、何もまとわないわたしの肌が真冬の空気に触れてさざめく。遠ざかる青い瞳。あらわになる面持ち。彼の薄い唇は、微笑みのかたちに結ばれていたけれど、わたしをみつめる瞳は、とてもかなしそうな色をしていた。泣かないで、とささやくわたしの顔が青い瞳に映り込む。彼はゆるく首を振り、すっと瞳でわたしのかたわらを指し示す。嫌だ、見たくない。そう思うのに、わたしの瞳はそろそろと彼の視線の先を辿たどる。

 にごった灰色の瞳を見ひらいた年かさの男が、わたしをみつめて、こときれていた。



*



 目をあけると、世界はあおかった。夜明け前の色だった。障子しょうじの向こうから流れてくる細雨さいうの音が、わたしの耳をざわめかせている。雪になりきれない、晩秋の冷たい雨。

 見飽きた夢をみた。眠るわたしに訪れる夢は、今も昔もひとつしかない。青い目をした男のひとも、灰色の目をした男のひとも、うつつで会ったことのない、知らないひとだった。すくなくとも、わたしがさかのぼることのできる記憶の中では。

睡蓮すいれん?」

 かすかに衣擦きぬずれの音がして、隣の布団で眠っていた姉様が、おもむろに上体を起こしてわたしの顔を覗きこむ。姉様の白い頬の片側に流れた長い黒髪の一房が、薄青に染まる部屋の中、姉様の頬の輪郭を縁取り、その白さを引き立てていた。

「夢をみたの?」

 絹の紗のように柔らかな、姉様の声が降る。浅い呼吸を整えながら、わたしはうなずく。起こしてごめんなさい姉様。大丈夫だから、平気だから。そう伝えたいのに、紙も筆も、ここからは遠い。

 わたしをみつめる姉様の瞳に、ふっと微笑の色が浮かぶ。ひんやりとした白い指先が、濡れたわたしのまなじりぬぐう。

「こっち、おいで」

 姉様の指が、すっと離れた。再び衣擦れの音がして、ふわりと温かい空気がわたしの頬を撫でる。掛け布団をかるく持ち上げて、姉様が瞳でわたしを招く。震えそうな唇を引き結んで、わたしは姉様の布団に逃げ込んだ。僅かに冷めてしまった布団の中の温もりは、ふたり分の体温を抱えて、すぐに元のあたたかさを取り戻していく。

「ねえ睡蓮、かなしい夢をみたときはね、誰かと一緒にいるほうが良いの。ひとりきりでいると、心が凍えて、もっとかなしくなってしまうわ。こわい夢も、いやな夢も、みんなそうよ」

 掛け布団の下、姉様の右手がわたしの左手を包むように握った。左手は、ゆっくりと、あやすようにわたしの頭を撫でる。

「こういうとき、子守唄をうたうことができたら良いのにね」

 凛と響く姉様の声が、すこし困ったような色を滲ませる。

 わたしたちは、子守唄を知らない。楼で紡がれる唄は何百何千とあるけれど、子守唄だけは結べない。

「睡蓮は、あったかいね。湯たんぽみたい」

 上掛けをかけなおしながら、姉様がふふっと笑みを浮かべる。わたしはきゅっと唇に力をこめて、そっと姉様の胸に額をつける。ことことと響く、姉様の音。なによりも安心できる、唯一の音。

 わたしたちに、子守唄は無い。うたわれることも、うたうことも。

 さああ、とさざめく雨の音が耳に付く。早く止んでくれれば良いと思う。雨の音は、否応なく記憶を巻き戻すから。いでいた深淵の底から、いたずらに記憶をすくい上げてくるから。

 わたしの辿たどれる記憶のはじまりは、暗くて冷たいひつの中だった。 目をあけても、世界の暗さは変わらなかった。ただ、ぽつりとひとつ、ふたという天井にあいた、針で突いたように小さな穴から、淡い光が漏れているだけ。夜空に灯るという星は、こんなふうに見えるのだろうか。仰向けに横たわったまま、わたしはふと、そんなことを考えていた。ほんものの星を、わたしは見たことがなかったから。

 櫃に入れられてから何日経ったのか。満たされることを諦めた腹は鳴くのをやめた。身動きのとれない、昼も夜もない暗闇の中で、足は歩くことを、目は光を、忘れはじめていた。

 季節は冬のさなかだった。弱い雨の降る音が聞こえていた。

 わたしを囲む板の隙間からは、僅かな空気と、たくさんの冷気が、流れ込んでくる。凍えた裸足の爪先が、ゆるくほどいた指先が、じんじんと鈍く痛んでいた。

 ふと、天井に灯る一粒の光を、指でなぞってみたくなった。けれど、腕はもう上げられない。わたしに残されていたのは、繰り返し現れる夢を眺めることと、雨の音をきくこと、そして呼吸することだけ。

(……あ……)

 ちりり、と瞬くように、天井の光の粒が揺れた。かすかに、ひとの声が漏れてくる。やわらかな、女のひとの声。

 かあさま……?

 喉は、声を生まなかった。涙と一緒にれてしまったのかもしれなかった。がたん、と響く音。掻き消される雨の音。声をなくしたわたしの喉が言葉のかたちに空気を編むのと、天井が取り払われるのは、同時だった。真白に染まる視界。強すぎる光に、闇に慣れきった瞳は追いつけなくて、わたしはぎゅっと目をつむった。

「うわ……ひでえな。こりゃあぜに失いになるんじゃねえか」

「いいから、さっさと抱き上げな、たで

 閉じたまぶたの向こう、すこししゃがれた男のひとの声に、張りのある女のひとの声がかぶさった。わたしの背中と膝のうしろにまわされた硬い腕。ふっと、ささくれた板の感触が背中から消える。科白せりふとは裏腹に、わたしを抱き上げる男のひとの腕にためらいはなかった。かっしりと確かに、それでいて、そっと丁重に、わたしを抱えた。あたたかい腕だった。

「じゃあ、おいとまさせてもらおうかね」

 女のひとの声が降る。どこかへ行くの? 閉じていた目を、そろそろとひらいた。眩しい。まだ全部はひらけない。すこしずつ、うっすらと、わたしは瞼のとばりを上げる。

 最初に見えたのは木組みの天井。無意識にわたしの瞳は、たったひとりを探してめぐる。

 母様。

 縁側の柱にもたれた、華奢きゃしゃな後ろ姿を、見つけた。まっすぐな鈍色にびいろの髪が、痩せた肩を縁取り、ゆるやかに背中を流れていた。母様はわたしを見なかった。白い頬も、青い瞳も、振り向くことはなかった。

 わたしを母様から買い取ったのは、はぎたでという、姉弟の行商人だった。売れるものなら人でも物でも何でも扱うのだという。八畳一間のふたりの家には、出荷を待つ色とりどりの蜻蛉玉とんぼだま根付ねつけくしかんざしの入った箱が、所狭しと並んでいた。

「食いな」

 差し出されたおわんに、わたしは瞬きをした。水を抱えてふっくらと膨らんだ真白のお米をくるむ乳白色のつゆに、蒲公英たんぽぽの花を散らしたように卵が溶かれている。

「卵粥だよ。そんな枯れ木みたいななりじゃあ、売れるものも売れやしないからね」

 にやりと口の端に笑みを浮かべた萩が、軽く椀を揺らして、わたしを促す。わたしはそろそろと手を伸ばした。ほわほわと白い湯気をまとう木の器。卵とお米の匂いに混じって、かすかに甘い、お味噌の香りがした。椀ごと丸呑みする勢いで食らいつくわたしに、同じものを食べながら蓼が笑って言った。

「美味いだろ。萩はな、口とがらは悪いが、料理の腕はとびきり良いんだ」

「ほほう、口は災いの元っていうことわざを知っているかい? 蓼」

 萩が蓼の頬をつねる。蓼がおおげさに悲鳴をあげる。

 ふたりの遣り取りを眺めながら、気付けばわたしは泣いていた。嗚咽おえつもなく、ただ涙だけがぽたぽたとあふれていた。

「美味いかい?」

 さっきと同じ、にやりとした苦さを溶かした笑みを浮かべて、萩が言った。頷いた拍子に頬の雫が唇に伝って、じわりとからい、塩の味がした。ぱちぱちとまきのはぜる音。燃える囲炉裏いろりが外側から、ほわほわと湯気の立つお粥が内側から体をあたためて、わたしの中の何かが融けて、涙という水になって、瞳から流れ出てしまったみたいだった。

 夕餉ゆうげのあと、萩に連れられて行ったのは湯屋だった。萩は、わたしの体を、頭の天辺から足の先まで丁寧に擦って磨いて、顔を覆っていた前髪は眉の隠れるぎりぎりのところで、横から背中にかけての髪は肩のところで、まっすぐに切り揃えて整えた。

 湯屋から戻ったわたしを見て、蓼は目を丸くした。

「これが、あの子?」

「そうだよ。誰が銭失いだって?」

「いやあ……たまげたわ」

 わたしの顔をまじまじと眺めて、蓼はぽんとわたしの頭に手を置いた。

「すっげえよ嬢ちゃん。別嬪べっぴんだ。嬢ちゃんなら、きっと良い見世みせに買って貰えるぜ」

 わたしをみつめて嬉しそうに笑う蓼を見上げて、わたしも小さく笑みを浮かべた。


――ありがとう、わたしを買ってくれて。


 このひとたちは、ただでわたしをさらうことだってできたはずだ。けれどこのひとたちは、ちゃんとわたしを買い取ってくれた。わたしに、ちゃんと値段をつけてくれた。

 ありがとう、母様にお金を払ってくれて。わたしの値段は母様を、いささかでも生かすことができただろうか。今までにわたしが消費してしまった分を、少しでも返すことができただろうか。与えることができただろうか。

 需要を満たすことが、できただろうか。

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