第二章-花籠-
第一話
熱が灯る。男の体温が、わたしの体に重なっていく。くすんだ青い瞳をした、若い、背の高い男だった。手も脚も胸も、何もかも重ねて合わせて
*
目をあけると、世界は
見飽きた夢をみた。眠るわたしに訪れる夢は、今も昔もひとつしかない。青い目をした男のひとも、灰色の目をした男のひとも、
「
かすかに
「夢をみたの?」
絹の紗のように柔らかな、姉様の声が降る。浅い呼吸を整えながら、わたしは
わたしをみつめる姉様の瞳に、ふっと微笑の色が浮かぶ。ひんやりとした白い指先が、濡れたわたしの
「こっち、おいで」
姉様の指が、すっと離れた。再び衣擦れの音がして、ふわりと温かい空気がわたしの頬を撫でる。掛け布団をかるく持ち上げて、姉様が瞳でわたしを招く。震えそうな唇を引き結んで、わたしは姉様の布団に逃げ込んだ。僅かに冷めてしまった布団の中の温もりは、ふたり分の体温を抱えて、すぐに元のあたたかさを取り戻していく。
「ねえ睡蓮、かなしい夢をみたときはね、誰かと一緒にいるほうが良いの。ひとりきりでいると、心が凍えて、もっとかなしくなってしまうわ。こわい夢も、いやな夢も、みんなそうよ」
掛け布団の下、姉様の右手がわたしの左手を包むように握った。左手は、ゆっくりと、あやすようにわたしの頭を撫でる。
「こういうとき、子守唄をうたうことができたら良いのにね」
凛と響く姉様の声が、すこし困ったような色を滲ませる。
わたしたちは、子守唄を知らない。楼で紡がれる唄は何百何千とあるけれど、子守唄だけは結べない。
「睡蓮は、あったかいね。湯たんぽみたい」
上掛けをかけなおしながら、姉様がふふっと笑みを浮かべる。わたしはきゅっと唇に力をこめて、そっと姉様の胸に額をつける。ことことと響く、姉様の音。なによりも安心できる、唯一の音。
わたしたちに、子守唄は無い。うたわれることも、うたうことも。
さああ、とさざめく雨の音が耳に付く。早く止んでくれれば良いと思う。雨の音は、否応なく記憶を巻き戻すから。
わたしの
櫃に入れられてから何日経ったのか。満たされることを諦めた腹は鳴くのをやめた。身動きのとれない、昼も夜もない暗闇の中で、足は歩くことを、目は光を、忘れはじめていた。
季節は冬のさなかだった。弱い雨の降る音が聞こえていた。
わたしを囲む板の隙間からは、僅かな空気と、たくさんの冷気が、流れ込んでくる。凍えた裸足の爪先が、ゆるくほどいた指先が、じんじんと鈍く痛んでいた。
ふと、天井に灯る一粒の光を、指でなぞってみたくなった。けれど、腕はもう上げられない。わたしに残されていたのは、繰り返し現れる夢を眺めることと、雨の音をきくこと、そして呼吸することだけ。
(……あ……)
ちりり、と瞬くように、天井の光の粒が揺れた。かすかに、ひとの声が漏れてくる。やわらかな、女のひとの声。
かあさま……?
喉は、声を生まなかった。涙と一緒に
「うわ……ひでえな。こりゃあ
「いいから、さっさと抱き上げな、
閉じた
「じゃあ、おいとまさせてもらおうかね」
女のひとの声が降る。どこかへ行くの? 閉じていた目を、そろそろとひらいた。眩しい。まだ全部はひらけない。すこしずつ、うっすらと、わたしは瞼の
最初に見えたのは木組みの天井。無意識にわたしの瞳は、たったひとりを探して
母様。
縁側の柱に
わたしを母様から買い取ったのは、
「食いな」
差し出されたお
「卵粥だよ。そんな枯れ木みたいななりじゃあ、売れるものも売れやしないからね」
にやりと口の端に笑みを浮かべた萩が、軽く椀を揺らして、わたしを促す。わたしはそろそろと手を伸ばした。ほわほわと白い湯気をまとう木の器。卵とお米の匂いに混じって、かすかに甘い、お味噌の香りがした。椀ごと丸呑みする勢いで食らいつくわたしに、同じものを食べながら蓼が笑って言った。
「美味いだろ。萩はな、口と
「ほほう、口は災いの元っていう
萩が蓼の頬をつねる。蓼がおおげさに悲鳴をあげる。
ふたりの遣り取りを眺めながら、気付けばわたしは泣いていた。
「美味いかい?」
さっきと同じ、にやりとした苦さを溶かした笑みを浮かべて、萩が言った。頷いた拍子に頬の雫が唇に伝って、じわりと
湯屋から戻ったわたしを見て、蓼は目を丸くした。
「これが、あの子?」
「そうだよ。誰が銭失いだって?」
「いやあ……たまげたわ」
わたしの顔をまじまじと眺めて、蓼はぽんとわたしの頭に手を置いた。
「すっげえよ嬢ちゃん。
わたしをみつめて嬉しそうに笑う蓼を見上げて、わたしも小さく笑みを浮かべた。
――ありがとう、わたしを買ってくれて。
このひとたちは、ただでわたしを
ありがとう、母様にお金を払ってくれて。わたしの値段は母様を、いささかでも生かすことができただろうか。今までにわたしが消費してしまった分を、少しでも返すことができただろうか。与えることができただろうか。
需要を満たすことが、できただろうか。
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