最終話

 方舟の夏は短い。七夕を過ぎれば、季節は急速に秋へとかじをきっていく。ひたひたと迫り来る冷たい空気から逃れるように、方舟は進路を南に取りはじめていた。空の温度は、ただでさえ、ひとにはいささか低すぎるらしい。

つるばみ

 社の講義棟へ向かう小道で、級友に声をかけられて振り向く。橡という名前にも、半分になった視界にも、大分、慣れたと、思う。

「今日は薬学の試験の成績発表があるなぁ」

「まだ時間があるから、羽人の演習場、のぞいていこうぜ」

「橡も来いよ」

 無邪気に笑う、すこし前まで全く交点も接点も持たなかった人間たち。好きか嫌いか、よりも、益か損かを、学んでいく。彼らは、おれが空を飛んでいたことを知らない。

 講義棟へと続く道から僅かに右へ折れて進めば、目の前に、演習場を囲む巨大な柵が現れる。

「あっ、見ろよ。模擬戦闘やってるぜ」

「訓練機だっけ、柊様が下賜かしを与えられたっていう、代物だろ」

「凄いよなぁ。今や最も旧文明を紐解く才があるって言われてる御方だもんな、柊様って」

 弾んだ声がおれの周りを流れていく。平和な会話だった。暢気のんきなやりとりだった。柊がおれの兄貴分だと知ったら、彼らはどんな顔をするだろう。おれは彼らにつきあうふりをしながらも、彼らから少し離れたところに立って視線を外していた。右目を覆う眼帯の存在を、無意識に確かめた。そのとき。

 ふっと雲の盾が割れ、朝陽の雫が、さっと光の矢を放った。光に誘われるように顔を上げる。雲の切れ間、光の注ぐ先を、左目が引き寄せられるように映していく。

 ひらり。

 目の端を、ひとひらの雪が舞った、気がした。風に遊ぶ花弁のようにも見えた。けれどそれは、雪や花弁のように、地上に墜ちることはなかった。

 雲のほころびから紡ぎ出される光の綾の中で、こどもがひとり、空を舞っていた。鉄柵の向こう、訓練機を次々と撃墜させながら。

「あの戦闘機、戦闘っていうより舞踏ってかんじの飛び方するよな」

「剣舞ってやつ?」

「そうそう。空で剣舞をしているみたいだ」

 彼らの会話が、するりと耳に流れこんでくる。立ち尽くし、食い入るように、おれの左目はその戦闘機を追っていた。無駄な動きのひとつもない、洗練を重ねた身のこなし。

 最後の訓練機を難なく墜とし、彼は刃を鞘におさめた。頭のうしろでひとつにまとめた、風になびく銀髪。ゆっくりと振り返る、白い頬。


「鴉」


 懐かしい名前を、呼ばれた気がした。この距離で、声が届くはずはないのに、たしかにそう、呼ばれた気がした。

「……鴎……辰星……」

 駆け寄って、柵にしがみついて、叫びたかった。安堵、懺悔、歓喜、畏怖、後悔、どれにも属しきれない激情が、体の内側で殻を突き破り、芯からき尽くしていくようだった。みつめるおれの左目をみつめ返して、彼は静かに、微かに、笑った。白い霞草かすみそうが一斉にそよぐように。おれを、全てを、ゆるし尽くすように。

 どこまでも白かった。どこまでも淡かった。それは、瞳いっぱいに慈しみを湛えた、果てない空のように透きとおった微笑だった。

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