第十八話

 白い部屋の中で、ぼくは目覚めた。壁も床も天井も、つややかな白い石でできていた。

 新しい木の匂いがする、白木の寝台。やわらかな布団が、ぼくを包んでいる。なにもかもが、白く、しろく、明るかった。光でできた部屋のようにも思えた。

 ぼくはどれくらい眠っていたのだろう。頭が、ぼうっとした。そろそろと右手を持ち上げる。ぬくもりがないことに、瞬きをする。誰かが、ずっとこの手を握っていてくれた気がしたのに。

 ふと、植木鉢に水を遣らないと、と思った。あれ? 違う? 舞の稽古だったっけ。頭の中が、ぼんやりとかすむ。

 ここはどこだろう。ゆっくりと体を起こして、辺りを見回す。窓の無い部屋だった。ただただ、滑らかに白かった。あるのは、この寝台と、硝子の嵌めこまれた白木の薬棚だけ。

 ぺたり、と裸足で床に降りる。爪先から伝わる、ひんやりとした清潔な冷たさに、頭にかかるもやがすこしずつ晴れていく。寝台についた左手。……左手? そうっと、右手で包んだ。無意識に。ああ、ぼくは、この手を知っている。ぼくの右手を、ずっと握ってくれていた手だ。

(ぼくは……?)

 ぺたぺたと素足のまま、白木の薬棚へと、ぼくは歩いていった。無機質な白い石の部屋の中で、薬棚の白木の色は、春の陽のようにあたたかくみえた。薬棚に嵌めこまれた硝子が、ぼくを映す。白い浴衣をまとうのは、雪をあつめてつくったような白い体だった。光の中、薄らと透ける、すらりと伸びた細い脚。巻いた帯が余った華奢な腰に、衿元えりもとから覗くあばらの起伏。骨のかたちがそのままみてとれる肩からつづくのは、すっととおった細い首。それが支える小さな顔。唇の透きとおる薄桃が色を添えるのは、はく木蓮もくれんを重ねたような、やわらかな白い頬。そのまんなかで、一対の瞳が、すっと大きくみひらかれる。

「――……璃……?」

 ぺたり。ももの内側に、冷たい床の温度を感じた。糸が切れた人形みたいに、ぼくの脚から力がほどける。白い床に座り込んで、ぼくは、左手を包む右手に力をこめた。強く、つよく。


――瑠璃、きみに、ぼくの体をあげる。


 最初に震えたのは、咽喉だった。ひゅ、と微かに、風の通る音を奏でて、結び目をほどくようにせきを切った。透明な雫が、光を弾いて、きらきらと床に散らばっていく。頬があたたかい。それは、涙だった。


――玻璃、きみに、ぼくの心をあげる。


 慟哭だっただろうか、それとも、歓喜だっただろうか。わあわあと声をあげて、右手と左手を、強く結んで。


 玻璃の体で、ぼくは泣いた。

 瑠璃の心で、ぼくは泣いた。

 ひとりでは泣けなかった。ふたりで初めてぼくらは泣けたんだ。こどもみたいに。こども、みたいに。

 結んだ右手と左手は、祈りのかたちをしていた。ひとが願いをかけるときの、手の結い方だった。

 こどもの手は未来を掴むためにあるんだよと、言ったのは、誰だっただろう。ぼくらが掴んだのは、互いの手だった。瑠璃がぼくの、玻璃がぼくの、短冊だった。


――ね、綴ろう。未来を、綴ろう。


 声は刃を孕まなかった。涙はただ、あたたかかった。生きている、生きつづけていく、そのことを、全身で叫んでいた。

 それは産声だった。ふたりで生まれた、ぼくらの産声だった。


――きみに、空をあげる。


 涙の雨が止んだなら、どこまでも高く、空を飛ぼう。

 生きていこう。ここから。ぼくらの願いが、尽き果てるまで。

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